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ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス : ミニ英和和英辞書
ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス[ふぃる]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

フィル : [ふぃる]
 【名詞】 1. fill 2. (n) fill

ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス : ウィキペディア日本語版
ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス[ふぃる]

ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス()あるいはルキウス・カエリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス()は、初期のキリスト教著述家(240年頃 - 320年頃)で、最初のキリスト教徒ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の助言者となり、彼の宗教政策が発展するように導いた人物である〔Lactantius' role is examined in detail in Elizabeth DePalma Digeser, ''The Making of a Christian Empire: Lactantius and Rome'', 2000.〕。また、コンスタンティヌス1世の息子の家庭教師となった。
==生涯==
ラクタンティウスはラテン語を母語とする北アフリカ人で、シッカのアルノビウスの下で学び、ローマ帝国東部の様々な都市で修辞学を教え、最終的にコンスタンティノポリスに入った。彼はキリスト教を明確に弁明する弁証的な著作を書き、これがローマの伝統的宗教を信じ続けていた教養人たちの趣味に合ったが、キリスト教の擁護はギリシア哲学者たちからの批判に対するものであった。彼の『神聖教理』(羅: Divinae Institutiones)はキリスト教思想の体系的な表現の初期の例である。彼は幾分か異端的であると死後にみなされたが、ルネサンス人文主義者が彼に新たな関心を抱いた。ただしそれは彼の神学のためではなく、むしろ彼の精巧な修辞的ラテン語文体のためであった。
神聖教理の英訳者は以下のように序文を始めている:
ラクタンティウスはキリスト教徒の家庭に生まれなかった。若いころは生地であるヌミディアキルタで修辞学を教えたが、同地の碑文で、ある「L・カエキリウス・フィルミアヌス」が言及されている。
ラクタンティウスは最初の内は順調にキャリアを積んだ。ローマ皇帝ディオクレティアヌスの要請に応じて、ニコメディアに赴いて修辞学の公的教師となっているが、彼はその時のアフリカからの旅を詩『ホドエポリクム』で詠んでいる。彼はニコメディアで論客ソッシアヌス・ヒエロクレスや異教哲学者テュロスのポルピュリオスとともに宮廷の交流に加わった; ここで最初に彼はコンスタンティヌスおよびガレリウスと会っているが、彼は後者をディオクレティアヌスによる迫害の黒幕とみている〔Paul Stephenson, ''Constantine, Roman Emperor, Christian Victor'', 2010:104.〕。キリスト教に改宗すると、彼は、ディオクレティアヌスによる宮廷内でのキリスト教徒粛清が始まり『反キリスト教令』(303年2月24日)が出される前に職を辞した〔Stephenson 2010:106.〕。続いて、ラテン語修辞家として彼はヒエロニムスに従って貧しい生活をして、コンスタンティヌス1世がパトロンになるまでは文筆業でなんとか生計を営んだ。新皇帝は老学者を311年もしくは313年に召し抱えた。コンスタンティヌス帝との友好によってラクタンティウスは貧困から脱出し、コンスタンティヌスの息子クリスプスのラテン語教師となった。その後317年に、クリスプスが副帝に任じられてトリーアに派遣されるとラクタンティウスも彼に付き従って同地へ赴いた。クリスプスは326年に死罪となったがラクタンティウスがいつどのような状況で死んだかは不明である。
初期の多くのキリスト教著述家と同様に、ラクタンティウスは古典古代の文体に倣った。初期の人文主義者は彼を「キリスト教徒のキケロ」(羅: Cicero Christianus)と呼んでいる。
彼の著作は15世紀に何度か出版されており、1465年の版は百万ドル以上の値段で2000冊売れた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス」の詳細全文を読む




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