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ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策では、ルクセンブルク家による神聖ローマ帝国の統治、特にドイツ及びイタリア政策を中心として解説する。 1308年のハインリヒ7世のドイツ王選出から1437年のジギスムントの死まで、ルクセンブルク家からは4人のドイツ王および神聖ローマ皇帝を出したが、連続して君主位に就いたわけではない。しかも歴代君主の多くがボヘミアやハンガリーの王を兼ねており、統治の中心はむしろボヘミアに置かれた。カール4世はそのために皇帝としての役割を果たしていないと非難された。ボヘミアではフス派が生まれ、その抵抗運動(フス戦争)により帝国は荒廃し、戦争の終焉と同時にルクセンブルク家も断絶した。 == 歴史 == === 背景 === 神聖ローマ帝国では大空位時代の後、ハプスブルク家出身のルドルフ1世が皇帝(正しくはドイツ王)位に就いた。強大な君主を望まなかったドイツ諸侯の意図に反してルドルフ1世は優れた人物で、勢力を拡大して後のハプスブルク家発展の土台を築いた。1291年にルドルフ1世が死ぬと、諸侯はナッサウ家のアドルフを新たな皇帝に就けた。ところがアドルフも勢力拡張を積極的に行い、諸侯の反発を受けた。ルドルフ1世の息子オーストリア公アルブレヒト1世はこれを好機として諸侯に巧みに取り入り、1297年6月にアドルフを廃位させた。そして翌1298年にアルブレヒト1世はアドルフを討ち取って皇帝位に就いた。アルブレヒト1世も勢力拡大に務めたが、甥のヨハン・パリチーダによって1308年5月に暗殺された。 アルブレヒト1世の息子フリードリヒ(美王)は次期皇帝に立候補したが、フランス王フィリップ4世(端麗王)は自らの弟ヴァロワ伯シャルル(ヴァロワ家の祖)を推した。フィリップ4世の目論見がドイツを支配下に置くことにあったのは明白であるが、ローマ教皇クレメンス5世がヴァロワ伯の立候補に難色を示した。時あたかもテンプル騎士団事件真っ只中であり、フィリップ4世の専横を教皇は苦々しく思っており、ヴァロワ伯が皇帝位に就くことでフィリップ4世の勢力が更に強力になるのを恐れた(クレメンス5世自身も後にアヴィニョン捕囚に遭う)〔鈴本達哉著『ルクセンブルク家の皇帝たち―その知られざる一面―』、近代文芸社、1997年、P16〕。 そこで教皇は、自らの意にかなう人物を皇帝位に就けようと画策し、選帝侯の1人でかねてより懇意であったルクセンブルク家出身のトリーア大司教バルドゥインに働きかけた。バルドゥインはこれを好機と捉え、兄のルクセンブルク伯ハインリヒ7世を皇帝にしようと企て、同じく選帝侯の1人マインツ大司教ペーター・アスペルトに計画を打ち明けて同意を取りつけた。両人はケルン大司教ら他の選帝侯にも工作を行った〔同P17〕。そして1308年11月のフランクフルトでの選挙において、ハインリヒ7世が大多数の票を得て皇帝に選出された。ルクセンブルク伯は帝国の諸侯であると同時にフランス王の封臣でもあり、フランス語を母語としていた(したがってフランス名でアンリと呼ぶべきともいえる)。ハインリヒ7世の選出は妥協の産物であり、諸侯もハインリヒ7世なら彼らの意にかなうと期待していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルクセンブルク家のドイツ・イタリア政策」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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