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ルツェルン(標準ドイツ語:、スイスドイツ語(アレマン語):Lozärn, フランス語:, 英語:)は、スイス中部のルツェルン州に属する基礎自治体(アインヴォーナーゲマインデ)で、同州の州都。ルツェルン湖(Vierwaldstättersee)の湖畔に位置し、ピラトゥス山とリギ山を臨む場所に位置する。 ドイツ語圏に属するが、現地のスイスドイツ語では「ロツェルン」(Lozärn)と呼ばれる。また、現在の標準ドイツ語では「ルツェアン」とも発音される。 毎年8月から9月にルツェルン音楽祭が行われることでも知られる。 == 歴史 == ルツェルンの創建については公式の記録はないが、ローマ時代、またはそれ以前には小さな集落があったと考えられている。8世紀にサン・レオデガー修道院が創建され、840年に"Luciaria" という名前が記録されている。その後、ロイス橋周辺で市(いち)がたつようになったが、現在の歴史家は行政権が修道院から市民の手に渡った1178年がルツェルンの誕生した年と見ている。 13世紀にサン・ゴッタルド峠を越える道が開通したことにより、ルツェルンは重要な交易地となった。当時アルザスのムルバッハ修道院がサン・レオデガー修道院を所有していたが、1291年にハプスブルグ家のルドルフが諸権利を買い取ったため、ルツェルンの自治が圧迫されてきた。 そのため、ルツェルンは近接するウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの原初三邦に接近し、1332年に同盟を成立させた。この1332年という年は、都市の住民と農村の住民が手を携えたという点で、スイスの歴史においても大きな意味を持つ。 ルツェルン周辺地域の支配強化を試みたハプスブルグ家に対し、ルツェルンと原初三邦は1386年のゼンパッハの戦いでハプスブルグ家の軍隊を打ち破った。以後ハプスブルグ家はスイス内の領地を次々に失い、ルツェルンはスイス建国の歴史に大きな役割を果たした町としてその名を刻むことになる。1408年に完成したムゼック市壁は、スイスで最も大きく、保存状態の良い市壁である。 2007年6月17日、隣接自治体ので住民投票が行われ、2010年1月1日にルツェルンへ吸収合併することが合意された。吸収合併によりルツェルンは人口約79,000人(当時)となり、スイスで7番目の都市となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルツェルン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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