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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ルドルフ・クリスチアン・カール・ディーゼル(、1858年3月18日 - 1913年9月29日)はドイツ人の機械技術者で発明家。ディーゼルエンジンの発明で知られている。 == 生涯 == 1858年、3人兄弟の2人目としてフランスのパリで生まれる。両親はバイエルンからの移民としてパリに住んでいた。父テオドールはアウクスブルクで製本業を営んでいたが、1848年にフランスに移住。1855年、ニュルンベルクの商人の娘とパリで出会い、結婚。革製品の製造を生業とするようになった。 幼少期はフランスで過ごしたが、1870年に普仏戦争が勃発し、一家も含めドイツ人はフランスから退去させられた。ディーゼル一家はロンドンに移住。しかし12歳のルドルフは、ドイツ語を母語として教育されるようアウクスブルクの母方の叔父と叔母の下へ送られ、叔父が数学の教師をしていた職業訓練学校 (Königliche Kreis-Gewerbsschule) に入学した。 14歳のとき、技術者になりたいと書いた手紙を両親に送っている。1873年にトップの成績で学校を卒業すると、アウクスブルクに新たに創立された工業学校に進学。2年後、両親は彼が就職することを希望していたが、ミュンヘン工科大学から奨学金を受けられることになり、ディーゼルは同大学に進学した。 ミュンヘンで指導を受けた教授の1人としてカール・フォン・リンデがいた。1879年7月、ディーゼルは腸チフスにかかり、留年することになった。翌年の卒業試験を待つ間、スイスのヴィンタートゥールにあるスルザー (Sulzer Brothers Machine Works) で技術者としての実地経験を得た。1880年1月、トップの成績で卒業するとパリに戻り、かつての教授カール・フォン・リンデの助手として冷凍・製氷工場の設計と建設を行った。1年後、ディーゼルはその工場の工場長となった。 1883年に結婚。その後もリンデで働き、数々の特許をフランスとドイツで取得していった。 1890年、妻子と共にベルリンに移り、リンデの研究開発部門の責任者に就任し、重役待遇を受けることになった。リンデの従業員として、職務上取得した特許を個人的に使うことは許されなかったが、ディーゼルは冷凍や冷蔵以外の分野にも研究を広げていった。蒸気について研究しはじめ、熱効率と燃費を研究するうちにアンモニアの蒸気を使った蒸気機関を開発。しかしその機関は試験運転中に爆発し、ディーゼルは九死に一生を得た。何ヶ月も入院し、その後も健康と視力に問題を抱えるようになった。 その後カルノーサイクルに基づいた内燃機関の設計を始め、1893年「既知の蒸気機関と内燃機関を置換する合理的熱機関の理論と構築」(Theorie und Konstruktion eines rationellen Wärmemotors zum Ersatz der Dampfmaschine und der heute bekannten Verbrennungsmotoren) と題した論文を発表し、ディーゼルエンジン発明の基盤を築いた。1893年2月23日、特許を取得。なお、それに先立つ1886年にはカール・ベンツがガソリンエンジンを搭載した自動車の特許を取得している。 ディーゼルは熱力学と熱効率の理論と実際の制約を理解しており、蒸気機関では燃料から得られるエネルギーの90%が無駄になっていることを知っていた。彼はもっと効率の高い機関を設計することを目標としていた。カルノーサイクルの内燃機関を実験した後、独自の技法を開発。最終的に独自設計の圧縮着火式内燃機関の特許を取得した。その設計では、燃料は圧縮行程の最後に注入され、シリンダー内が吸気の圧縮によって高温になっていることで着火する。 1893年から1897年まで、アウクスブルクのマンAGの重役ハインリヒ・フォン・ブズがディーゼルに、そのアイデアを発展させ、評価する機会を提供した〔。その特許をドイツやアメリカ(、)を含む各国で取得した。当初は「オイル・エンジン」と呼ばれていたが、後に彼に因んでディーゼルエンジンと呼ばれるようになった。安価な石油や重油を燃料とした効率のよいこの機関は、たちまち世界中で利用されるところとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルドルフ・ディーゼル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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