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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ルパート・コスト(1906年 - 1989年)は、アメリカインディアンの作家、歴史家、人権活動家、出版者、民族運動家。 ==来歴== カリフォルニア州アンザ出身の、インディアン。青年時代はスポーツマンとして知られ、短期間だがセミプロのバスケットボール選手を務めている。 1920年代後期に、に通い、高速道路技師、水文学者、気象学者、測量士として働いた。部族会議のスポークスマンを8年間務め、「アンザ電気協同組合」、「アンザ農業連合会」、「アンザ土壌保全地区」、「リバーサイド農業連合会」の設立を助けた。またルパートと彼の親類は、リバーサイド郡にカリフォルニア大学の新しい分校を開校するよう州議会議員を説得している。 1924年の「」の前に生まれたルパートはその幼児期から、アメリカ連邦政府がインディアンの保留地をバラバラに解体し、インディアンの児童を「インディアン寄宿学校」に強制入学させることによって部族のアイデンティティを抹消しようとした歴史の中にいた。ルパートは「インディアンのニュー・ディール」と呼ばれた1934年の「」の議会通過を10代で目撃している。 この法令は、部族のアイデンティティとして、「インディアンの権利」を主張していたが、その方法として「議会制民主主義」をインディアンの保留地に持ち込み、「部族会議」(部族政府)の設立を各保留地に義務付けた。「首長を議会が選任し、個人が部族を治める」というこの首長制システムは、本来「長老や酋長といった賢者の集まりが合議によって部族の方針を決定する」というインディアン社会の伝統的な合議制民主主義と相容れないものだった。大いなる神秘のもとに森羅万象が平等であると考えるインディアンの社会において、個人が権力を持つ首長制は「部族会議」とともに反発を受け、まるで機能せず、「部族政府」は腐敗する一方だった。部族会議のスポークスマンを務めていたルパートは「部族の正義」、「部族民の登録方針」、「部族会議の不規則な財政」、「投票手順」などに対する部族メンバーの不満や軋轢について、数多くの記録を遺している。これらの記録は後述する「コスト図書館」で自由閲覧できる。 第二次世界大戦の後、ルパートが中年期に入った頃に、アメリカ連邦政府は大きな方針転換を行った。1945年から1961年まで、連邦政府は「インディアン絶滅政策」を掲げ、インディアンの部族政府を終了させようとしたのである。連邦政府は雇用に乏しい保留地から、「職業訓練」を名目にインディアンを放逐し、都市部へ流入させた。やがて限界集落化した保留地の保留は解消され、連邦領土として没収されていった。インディアンの保留地には、往々にして貴重な地下資源があった。合衆国にとって、インディアンの部族を連邦条約規定から打ち切って「絶滅」扱いとすれば、年間多額の対インディアン予算を省き、また地下資源を手に入れられる、まさに一石二鳥の施策であった〔『The Seattle Civil Rights and Labor History Project』(Karen Smith ,「United Indians of All Tribes Meets the Press:News Coverage of the 1970 Occupation of Fort Lawton」,University of Washington)〕。 1950年代初期に、ルパートは、東部チェロキー族女性のジャネット・デューセ・ヘンリー(1909~2001年)と結婚した。ジャネットは17歳のときに家を飛び出し、1930年代後期には『』紙で警察担当記者を務め、カリフォルニアへ移った後、『コロナ』紙の新聞記者、『ブルーシールド』紙の広報担当官として長年働いていた。サンフランシスコのに居を構えた二人は、「アメリカインディアンの実像がきちんと語られていない」ということに不満を持ち、これを正すべく、そのエネルギー、所得と知性の全てを捧げた活動家、作家、組織者として、文字通り二人三脚でインディアン史の研究に取り組み始めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルパート・コスト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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