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ルビー・ラフーン : ミニ英和和英辞書
ルビー・ラフーン[らふ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough

ルビー・ラフーン : ウィキペディア日本語版
ルビー・ラフーン[らふ]

ルビー・ラフーン(、1869年1月15日 - 1941年3月1日)は、アメリカ合衆国政治家弁護士であり、1931年から1935年まで、第43代ケンタッキー州知事を務めた。17歳の時に叔父のアメリカ合衆国下院議員ポーク・ラフーンと共に住むためにワシントンD.C.に移転した。政治に関する興味を増してケンタッキー州に戻り、郡や州のレベルで選挙に勝ったり負けたりした。1931年、民主党予備選挙ではなく、指名大会でその州知事候補に選ばれ、1903年以降では指名大会で選ばれた唯一の民主党知事候補となった。選挙では共和党の対抗馬ウィリアム・B・ハリソンを、ケンタッキー州知事選挙始まって以来の大差で破った。
ラフーンは「マディソンビルの恐ろしい腕白坊主」とあだ名され〔、世界恐慌の経済的困難さに直面することになった。州財務省への歳入を上げるために、州初の消費税法制化を提唱した。この問題が州知事としての任期の大半を占有し州民主党やラフーン自身の内閣を分裂させた。副知事のA・B・"ハッピー"・チャンドラーが州議会で税に対する戦いを主導した。州議会の2つの通常会期と特別会期合計3回で税法案が否決された後、ラフーンは1934年の特別会期で税法案を通すために、共和党と二党間の連衡を固めた。
ラフーンとチャンドラー副知事の確執はラフーンの任期を通して続き、1935年の州知事選挙に影響した。当時の副知事は州知事とは独立した選挙で選ばれていた。ケンタッキー州憲法の規定で再選を求められないラフーンは、その後継者として政治ボスのトム・レイを支持し、民主党には再度指名大会で州知事候補を選ぶよう説得した。このことでラフーンが後継者を選ぶ可能性を大きく高めた。ラフーンがワシントンD.C.を訪れている間に、ケンタッキー州憲法の条項に従い、チャンドラーが知事代行を務めた。チャンドラーは州議会の特別会期を招集して、予備選挙を義務付ける法案を検討させた。ラフーンは急ぎケンタッキーに戻り、会期招集を無効化しようとしたが、ケンタッキー州控訴裁判所がその会期を合憲だと判断し、予備選挙法が成立した。チャンドラーが予備選挙でレイを破り、ラフーンの跡を継いで州知事になった。ラフーンは州知事の任期が明けた後に、故郷のマディソンビルに戻り、1941年に脳卒中で死んだ。その知事としての遺産の中に、ケンタッキー・カーネル(名誉大佐)を発行した数が記録となっており、その指名された者の中には、ケンタッキーフライドチキンをチェーン展開したハーランド・サンダース(カーネル・サンダース)がいた。
== 初期の経歴 ==
ルビー・ラフーンは1869年1月15日、ケンタッキー州マディソンビルにあった丸太小屋で生まれた〔Harrison and Klotter, p. 362〕。父はジョン・ブレッドソー・ラフーン・ジュニア、母はマーサ・ヘンリエッタ(旧姓アール)であり、その3番目の子供で、唯一の男の子だった〔Gipson, pp. 2–3〕。ラフーンの伝記作者バーノン・ギプソンに拠れば、ラフーンの両親は新生児の名前を決められずに、数年間というもの「バッド」(子供)と呼んでいただけだった〔。ラフーンが幼い頃に、たびたび訪れていたグロサリーストアの経営者ジョン・エドウィン・ルビーから、自分で「ルビー」という名前を選んだ〔Gipson, p. 4〕。
ラフーン家は主に農家だったが、政治の世界にも多少の経験があった〔Gipson, p. 2〕。ルビー・ラフーンの祖父、ジョン・ブレッドソー・ラフーン・シニアは1815年にサウスカロライナ州からケンタッキー州に移って来て、ケンタッキー州下院議員を1期務めた〔。ルビーの父、ジョン・ジュニアはホプキンス郡の副保安官を数期、郡評価官を1期務めた〔Gipson, p. 2〕。ルビーの叔父、ポーク・ラフーンはアメリカ合衆国下院議員を2期務めた〔Gipson, p. 3〕。
ラフーンはマディソンビルの公立学校で初等教育を受けた。そこにいる間に、教師の1人は姉のスーザン・イザベラ・ラフーンであり当時まだ16歳だった。ラフーンが15歳のとき、畑を耕しているときにラバに腰を蹴られ、ナッシュビルの病院に6週間入院しなければならなくなった。同年の冬には氷の上で滑って、再度腰を痛めた。これらの怪我のために右足が左足よりも1.5インチ (38 mm) 短くなり、その後の生涯を通じて特別の靴を履き、杖を突いて引きずって歩くことになった。この怪我の後、両親はラフーンが農夫では生きていけないだろうと判断し、W・C・オブライアンの私立学校に入れた。ラフーンは17歳のときまでに、ホプキンス郡のチャールストンにある公立学校で教師をしていた〔Gipson, pp. 4–5〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ルビー・ラフーン」の詳細全文を読む




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