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マイダネク(独・波:Majdanek)、正式にはルブリン強制収容所(独:Konzentrationslager Lublin)は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に設置した強制収容所の一つである。ポーランド、ルブリン郊外に位置する。マイダネクにはガス室が設置された。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所と同じく強制収容所と絶滅収容所の役割を兼ね備えた収容所であった〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)360ページ〕。その規模はアウシュヴィッツ=ビルケナウに次ぐ。 親衛隊(SS)がつけた正式な名称は「ルブリン強制収容所」であったが、周辺住民たちは、この収容所を近隣の村マイダンの名前をとって「マイダネク」と呼び習わしていた。戦後はこの名前で有名となった〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)350ページ〕〔ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻』(柏書房)159ページ〕。 マイダネクには総計で50万人もの人々が収容され、ポーランド側の発表によるとそのうち36万人以上が死亡したという〔ベーレンバウム著『ホロコースト全史』(創元社)264ページ〕〔ウォルター・ラカー著『ホロコースト大事典』(柏書房)574ページ〕。マイダネクの死亡者で一番多いのは、ポーランド人であり、ユダヤ人とロシア人がそれに続く〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)360ページ〕。ユダヤ人の死亡者数はラウル・ヒルバーグによると5万人であったという〔ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻』(柏書房)170ページ〕。 == 収容所の歴史 == ルブリンから南方2キロの所のヴィスワ川とブーク川に挟まれた場所に存在していた。北東にソビボル強制収容所、南東にベウジェツ強制収容所が存在した〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)350ページ〕。 親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けたルブリン地区の親衛隊及び警察高級指導者オディロ・グロボクニクにより1941年秋から建設工事が開始された。建設作業は1942年5月まで急ピッチで進められて、その後は少しずつ拡張作業が行われ、最終的には1942年冬に完成を見た〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)351・352ページ〕。 1942年5月の時点でマイダネクは広さは273ヘクタールであった。有刺鉄線の鉄条網で分けられた6つの区域から成っていた。300人以上を収容可能な住居バラックが144棟建てられていた。他の強制収容所と同様に厳重な警備態勢が敷かれていた。高さ4メートルの支柱を2列に一定間隔で立ててその間を有刺鉄線で結びつけてフェンスとし、2列の柱の間に一方の柱の天辺から他方の根元までに対角線に有刺鉄線がわたしてあり、この第三の網を碍子で固定し、そこに電流を流していた。一定間隔に機関銃を備え付けた監視塔も設けていた。親衛隊員が看守であり、警察犬として200頭のシェパードも飼われていた〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)352ページ〕。 当初はマイダネクにガス室はなく、独ソ戦のロシア人捕虜や先のポーランド侵攻の際のポーランド人捕虜の収容先として考えられていたという。もっとも初期のころから近隣の村から連行したユダヤ人数千人も収容されていた〔ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻』(柏書房)159ページ〕。1942年4月頃のルブリン・ゲットーの解体、1943年5月頃のワルシャワ・ゲットーの解体の際にはそこで暮らしていた大量のユダヤ人がマイダネクに移送されてきている。しかし囚人の中で一番多かったのは非ユダヤ系ポーランド人であった。 1942年9月から10月にかけて最初のガス室が3つ設置された〔ラウル・ヒルバーグ著『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅 下巻』(柏書房)159ページ〕。最終的にマイダネクにはガス車1台と6つのガス室が置かれることとなった〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)358ページ〕。マイダネクでのガス殺にはチクロンBと一酸化炭素が併用されていた。1度につき1914人をガス殺することが可能であった〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)358ページ〕。 ガス室は1942年10月から1943年秋にかけて本格的に稼働していた。マイダネクはアウシュヴィッツと同様、強制収容所と絶滅収容所の側面を兼ね備えた収容所であった。まだ働ける者は働かせる一方、飢餓や看守の暴力で衰弱した者、チフスに罹った者、そしてナチスにとって死んだ方が好都合な者などはガス室へ送られたのであった〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)358ページ〕。現在このガス室は一般に公開され、天井に沈着する青々としたチクロンBを今でも眺める事が出来る〔ウォルター・ラカー著『ホロコースト大事典』(柏書房)139ページ〕。マイダネクで使用されたチクロンBの量は総計で7711キロである〔ウォルター・ラカー著『ホロコースト大事典』(柏書房)139ページ〕〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)358ページ〕。 マイダネクでは銃殺による虐殺も数多く行われた。1941年12月にソ連捕虜が約1,900人銃殺されたのにはじまり、ソ連捕虜が定期的に銃殺されていた。しかし銃殺活動の規模が一番大きかったのは1943年11月3日の「収穫祭作戦」(囚人からは「血の水曜日」)と呼ばれるユダヤ人大量銃殺作戦だった。マイダネク収容所にいた8400人と他の収容所や町から連れてこられた1万人の合わせて1万8000人のユダヤ人がこの日に銃殺された〔ヴォルフガング・ベンツ著『ホロコーストを学びたい人のために』(柏書房)159ページ〕〔マルセル・リュビー著『ナチ強制・絶滅収容所 18施設の生と死』(筑摩書房)357ページ〕。 他の強制収容所と同様にドイツの戦況が深刻化するにつれ、食糧が不足して常時餓死者が発生するようになった。生きている囚人も骨と皮だけになるか、飢餓による鼓腸を起こして異常に太って見えるか、どちらかの状態になっていった。 死体は当初埋められていたが、ソ連軍の接近に伴い、証拠隠滅のために死体が掘り起こされては改めて焼却された。生存者は別の収容所へ移送され、1944年7月23日にソ連軍がここに到着した際にはわずかな囚人しか残されていなかった。施設の多くも焼却されるか爆破されていったが、ただ焼却炉だけは爆破しきれずそのまま残っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マイダネク」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Majdanek concentration camp 」があります。 スポンサード リンク
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