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ルワンダ愛国戦線(ルワンダあいこくせんせん、英語:''Rwandan Patriotic Front'', RPF, 仏語:''Front patriotique rwandais'', FPR)は、1987年、ウガンダに逃れたツチ系難民によって設立されたルワンダの旧反政府勢力。現在ではルワンダ大統領ポール・カガメ率いる政党。現在のルワンダ政府はルワンダ愛国戦線と他の政党(民主共和運動、イスラム民主党など)との連立政権である。 2003年の選挙でルワンダ愛国戦線は53の議席のうち33議席を獲得した。 == 背景 == 1959年、グレゴワール・カイバンダの主導でツチによる君主制が覆り、報復を恐れたツチはウガンダに逃げ始めた。この動きは1962年のベルギーからの独立前後も続いた。この時期に5万から7万人のツチが難民となってルワンダから流出したが、ツチに対する暴力行為は断続的に続き、1990年にはツチ系難民の数は20万人まで膨れ上がった。その中で国際連合難民高等弁務官事務所 (UNHCR) に難民登録した者は8万2千しかいなかった〔Mahmood Mamdani, ''When Victims Become Killers: Colonialism, Nativism, and the Genocide in Rwanda'', Princeton University Press, 2001, ISBN 0-691-10280-5, p. 164〕。 ウガンダは当時、難民に対して厳しい法律のある国であった。難民たちは難民キャンプに閉じ込められ、難民の両親から生まれた子供たちは、ウガンダ生まれであっても難民という立場が引き継がれた。難民の数が増えるにつれ、当初定められていたキャンプの境界から人々があふれた。難民という立場で1つの恩恵があるとすれば、子供たちが国際連合の援助を受けられることであった。特にUNHCRの奨学金により、多くの若者たちがキャンプを出、優秀な人材となってウガンダやその他の国で仕事を見つけた。その結果として成功したツチがウガンダの社会に増えるにつれ、ツチをウガンダの脅威とみて民族差別が起こるようにもなっていった〔Mamdani 2001, pp. 165-166〕。 1960年代後半の政治危機の間、ミルトン・オボテ政権は外国人難民管理法を施行した。この法律は、ルワンダ人(バニャルワンダ)を任意に拘束できると定めるものであった。1969年、オボテはすべての「技能を持たない外国人」を政府関連の仕事から排除するように命令し、数千のルワンダ人が影響を受けた。バニャルワンダとはルワンダ語を話す人々の総称であり、これには1920年代にルワンダ南部から労働者として移住したフツや、近年に難民として流れ込んだツチが含まれた。オボテはまた、バニャルワンダに対する人口調査を命じ、いかなる政治的影響力をも持たないようにした。この調査は1971年、イディ・アミンによるクーデターによって中断された。バニャルワンダの中からウガンダの治安部隊に参加する者もいたが、対照的にタンザニアで集められた反イミン勢力に参加する者もいた。その中には、ヨウェリ・ムセベニと救国戦線に参加したフレッド・ルウィゲマがいた〔Mamdani 2001, pp. 166-168〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルワンダ愛国戦線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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