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ル・スュール : ミニ英和和英辞書
ル・スュール[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ル・スュール ( リダイレクト:ジャン=フランソワ・ル・スュール ) : ウィキペディア日本語版
ジャン=フランソワ・ル・スュール[ちょうおん]

ジャン=フランソワ・ル・スュールJean-François Le Sueur もしくは Lesueur 1760年2月15日 - 1837年10月6日)は、フランス作曲家
== 生涯 ==
ル・スュールはアブヴィルに近いドゥルカの小さな村、プルッシェル(Plessiel)に生まれた。一家はピカルディで長く暮らしていた家族で、画家のは彼の大おじにあたる。ル・スュールははじめ、アブヴィルの大学の教会で聖歌隊に入り、続いて入ったアミアン大聖堂で音楽の勉強を推し進め、の大聖堂では合唱指揮者に任命された。彼はパリへと赴き、サン=イノサン(Saints-Innocents)教会で合唱指揮者をしていたに和声法を師事した。ル・スュールはディジョン1779年)、ル・マン1782年)、トゥール1783年)と各地の職を歴任した後、ロゼの跡を継いでサン=イノサンでのポストに就いた。さらに1786年には選考の末、パリのノートルダム大聖堂の音楽監督に就任した。
ル・スュールは被昇天祭に管弦楽を導入するという改革を実行し、大きな成功を収めた。メインの祭典における彼の宗教曲の演奏会は、人が教会の外に溢れるほどの超満員となったが、聖職者の団体からの抵抗を受けるようになってしまった。彼はこれに応える形で「''Exposé d'une musique imitative et particulière à chaque solennité''」(1787年)という小冊子を発行した。フランス財政危機の折には、大聖堂の修道士会が音楽予算を減額することを決定したが、これによってル・スュールは専門にしていた重要な音楽ミサを諦めざるを得なくなり、彼自身も職を辞すことになった。
ル・スュールは1788年から1792年にかけてはロンドンで暮らしており、フランス革命のさなかのパリへと帰国してで3つのオペラの公演を成功させた。「''La Caverne, ou le Repentir''」(1793年)、ジャック=アンリ・ベルナルダン・ド・サン=ピエールの非常に有名な小説「」「ポールとヴィルジニー」に着想を得た「''Paul et Virginie, ou le Triomphe de la vertu''」(1794年)、そして古典的な「''Télémaque dans l'île de Calypso, ou le Triomphe de la sagesse''」(1796年)である。
ル・スュールは1793年11月21日に国防軍学校の教授に任用され、パリ音楽院が新たに出来ると監督官(Inspecteur)に採用された。メユールラングレゴセックカテルがいる中、ル・スュールの仕事は基礎原理とソルフェージュの指導に限られた。パリのオペラ座で自作オペラ「''Ossian, ou Les bardes''」、「''La mort d'Adam''」が上演できず、彼は「''Projet d'un plan général de l'instruction musicale en France''」という激しい内容の小冊子を発行して音楽院とその教育法、院長を攻撃した。そして1802年9月23日に免職された。
公的な職がなくなり、ル・スュールは貧しい暮らしに陥り始めていた。1804年ナポレオンが、パイジエッロの後任として彼をテュイルリー宮殿の教会楽長に据えることになった。こうして彼は最も有名な作品である「''Ossian ou Les bardes''」を上演できるようになり、オペラ座でも大きな成功となり、皇帝からも大好評を得た。ナポレオンは、このお気に入りとなったオペラの作者をレジオンドヌール勲章に叙した。ル・スュールはナポレオンの戴冠式のために凱旋行進曲を作曲しており、パイジエッロのミサ曲とかつての師であるロゼの「''Vivat''」を指揮している。1813年、彼はアンドレ・グレトリに代わって芸術アカデミーの会員となった。
王政復古の時期には、ル・スュールはロイヤル・チャペルの作曲家、オペラ座管弦楽団の指揮者となった。1818年の初頭から、彼はパリ音楽院で作曲を教えるようになった。長年の教員生活の間に、彼の門下からはベルリオーズトマグノーベゾッツィマルモンテルらが輩出している。
ル・スュールはパリで77年の生涯を閉じた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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