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ルーシー・M・モンゴメリー : ミニ英和和英辞書
ルーシー・M・モンゴメリー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルーシー・M・モンゴメリー ( リダイレクト:L・M・モンゴメリ ) : ウィキペディア日本語版
L・M・モンゴメリ[えるえむもんごめり]

ルーシー・モード・モンゴメリLucy Maud Montgomery1874年11月30日 - 1942年4月24日)はカナダの小説家である。『赤毛のアン』の作者であり、本作を第一作とする連作シリーズ「アン・ブックス」で良く知られている。彼女の小説は英語で記されている。
== 生涯 ==
ルーシー・モード・モンゴメリは1874年11月30日〔モンゴメリはウィンストン・チャーチルと同じ日生まれである。〕に、カナダ東部プリンス・エドワード島のクリフトン(現在のニューロンドン)で生まれた。スコットランド系とイギリス系の祖先を持つ〔アルプスの峰をめざして 一章-四章 : L・M・モンゴメリー自叙伝 須川美知子, 横浜創英短期大学紀要 3, 55-83, 2002-03-31 〕。父方の祖父は、上院議員〔。
モンゴメリが生後21か月(1歳9か月)のとき、母クララ・ウールナー・マクニール・モンゴメリが結核で亡くなると、父ヒュー・ジョン・モンゴメリはカナダ西部へ移住したため、モンゴメリはキャベンディッシュの農場に暮らす母方の祖父母、アレクサンダー・マーキス・マクニールと、ルーシー・ウールナー・マクニールに厳しく育てられた。マクニール家は文才に恵まれた一族で、モンゴメリは祖父の詩の朗読をはじめ、叔母たちから多くの物語や思い出話を聞いて育った〔。しかし、一部の叔母たちを除いて、保守的な祖父、口うるさく支配的な祖母、モンゴメリの欠点をあげつらう親族のことは嫌っていた〔〔モンゴメリの日記(八) - 友の死…『日記抄』一九一九年ニ月七日をもとに 竹内 素子/伊澤 祐子/藤掛 由実子, 仙台電波工業高等専門学校/宮城学院女子大学/東北大学非常勤講師〕。
1890年(15歳のころ)には父と継母と暮らすため、サスカチュワン州プリンス・アルバートに送られたが、1年後にはプリンス・エドワード島の祖父母の家に戻っている。11歳しか年の違わない継母からは子守りと家事手伝いを命じられ、勉強をしたいという夢を打ち砕かれるが、この時期に書いた詩やエッセイが新聞に掲載され、作家を目指すきっかけとなった〔。
1893年。キャベンディッシュでの中等教育を終えたモンゴメリは、シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジ(現在のホーランド・カレッジ)へ進学した。2年分の科目を1年で終え、1894年に一級教員の資格を取得した。1895年から1896年にかけてノバスコシア州の州都ハリファックスダルハウジー大学で聴講生として文学を学んだ。
島にあるさまざまな学校で教師を務めたあと、1898年に祖父を亡くし、未亡人となった祖母と暮らすためにキャベンディッシュに戻った。祖父は地元の郵便局長も務めていたため、死後その仕事をモンゴメリが引き継いだ〔。1901年1902年の短期間、ハリファックスで新聞社のデイリー・エコー社に記者兼雑用係として〔勤め、1902年に祖母の世話をするため、再びキャベンディッシュに戻った。ちょうどこの頃、すでに雑誌向けの短編作家としてキャリアを積んでいた彼女は、最初の長編を書く気になったという。気難しい祖母との辛い暮らしの中、相談相手となってくれた〔長老派教会牧師ユーアン・マクドナルドと1906年に婚約。1908年最初の長編小説『赤毛のアン』を出版し、世界的ベストセラーとなる大成功を収める。ユーアン・マクドナルドとは祖母が亡くなった直後、モンゴメリ36歳の1911年7月11日に結婚し、英国・スコットランドへの新婚旅行の後、オンタリオ州リースクデール(現ダラム地域アクスブリッジ )に移り住んだ。
モンゴメリは続く11冊の本をリースクデールの牧師館で書いた〔のちにこの牧師館は教会によって売却され、モンゴメリを記念する博物館、「Lucy Maud Montgomery Leaskdale Manse Museum」になっている。〕。1919年に最も親しかった従妹のフレドリーカ・キャンベル・マクファーレンを病気で失くす〔。この喪失感は生涯続いた〔。1926年に一家はノーヴァル(現在のオンタリオ州ハルトンヒルズ)に移住した〔ハルトンヒルズには、モンゴメリを記念する公園、「Lucy Maud Montgomery Memorial Garden」がハイウェイ沿いに建設されている。〕。
1935年フランス芸術院会員となり、また、大英帝国勲位も受けた。同年一家はトロントへ移った。モンゴメリは1942年トロントで亡くなった。死因は「冠状動脈血栓症」とされてきたが〔''Selected Journals of L.M. Montgomery Volume V: 1935-1942'' P. 399〕、『赤毛のアン』原作誕生百周年の年に、孫娘のケイト・マクドナルド・バトラーにより、うつ病による自殺と公表された〔亡くなった当日、誰かによって出版社に“The Blythes Are Quoted”という15の短編小説と41篇の詩、12場の炉辺の会話からなる原稿が届けられ、日本では『アンの想い出の日々』として出版された(「『アンの想い出の日々』--翻訳家 村岡美枝さんに聞く」『村岡花子と赤毛のアンの世界』河出書房新社)〕。グリーン・ゲイブルズおよび教会での葬儀のあと、キャベンディッシュ墓地に葬られた。
モンゴメリのコレクションはガルフ大学に所蔵されているほか、プリンスエドワードアイランド大学にあるthe L.M. Montgomery Instituteがモンゴメリ関連の研究や会議をコーディネートしている。モリー・ギレンは、モンゴメリとマクミランが交わした40以上の手紙を元にモンゴメリの初めての伝記「The Wheel of Things: A Biography of L.M. Montgomery (1975) 」(邦題『運命の紡ぎ車)を著した。1980年代初め、モンゴメリの全日記がマリー・ルビオとエリザベス・ウォーターストンの編集でオックスフォード大学印刷局から刊行された。1988年から1995年にかけて、リー・ウィルムシュルストがモンゴメリの短編を収集して出版した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「L・M・モンゴメリ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lucy Maud Montgomery 」があります。




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