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ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル : ミニ英和和英辞書
ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル : ウィキペディア日本語版
ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル[ちょうおん]

ルートヴィヒ・アロイス・フェルディナント・リッター・フォン・ケッヘル(, 1800年1月14日 - 1877年6月3日)は、音楽学者、作曲家、植物学者、鉱物学者、教育者。正確にはケッヒェル1862年モーツァルトの全作品目録を出版、そこで作品に振られた番号はケッヘル番号として現在も使われている。
== 生涯 ==
1800年1月14日オーストリアニーダーエスターライヒ州シュタインで生まれた。モーツァルト没後9年、ハイドンはまだ存命、ベートーヴェンは難聴に苦しんでいた頃である。父はシュタインに置かれたパッサウ司教宮殿の管財人のヨハン・ゲオルクで、祖父や叔父は市長を務めた名家の出。1810年代後半に大学に通うためにウィーンに移り住むまで、この生地シュタインで育った。その間、隣町クレムスのギムナジウムで学び、1816年に最優秀の成績で卒業している。この卒業の年、地元シュタインでモーツァルトフェスティバルが開かれているが、企画運営の中心に父のヨハン・ゲオルクがいるなど、当時さほど人気が高いわけではなかったモーツァルトが比較的身近な環境のなかで育っている。
ウィーン大学で法律を学んだ後、カール大公の財産管財人を務めるさる貴族の家の家庭教師となり、さらにその貴族の知合いである伯爵家の家庭教師へと出世。1827年には法学博士号を取得、同年カール大公一家の家庭教師にまで上り詰めた。ケッヘルは大公の宮殿(現在のアルベルティーナ美術館)内に居住することになる。同僚にはフィリップ・マイヤー1798年-1828年)やフランツ・シャールシュミット1800年-1887年)などがいた。翌1828年から2年にわたり、鉱物学者のフリードリッヒ・モースがウィーンの帝立鉱物標本館に招かれて行った講義を聴講、幼い時からの鉱石蒐集に更に熱が入る。植物学への貢献も高く、晩年にはウィーンの帝立動植物協会の終身会員に推挙されるまでになる。
1842年、カール大公の子供たちが成長したのに伴い家庭教師の職を辞す。その際レオポルト騎士団勲章を授与され貴族に叙せられた。翌年にはウィーン楽友協会の副総裁に選出された。1848年革命で混乱するウィーンを離れてテシェンに引越し、その2年後ザルツブルクへと移った。このモーツァルトの故郷には1850年から1863年まで10年以上暮らし、彼の作品目録作成に取り組んだ。また鉱石学にも引続き関心を持ち、『ザルツブルク公国の鉱石』(1859年)に結実する。
1851年、ケッヘルの友人フランツ・ローレンツから著作『モーツァルトのこと』が送られてくる。そこにはモーツァルトの作品が散逸してしまうのではないかという懸念が表明されていた。それに刺激を受けたケッヘルは作品目録の作成を開始した。完成した目録は1862年ブライトコップ社から『モーツァルト全音楽作品の年代別主題別目録 Chronologisch-thematisches Verzeichniss sämmtlicher Tonwerke Wolfgang Amade Mozart's』として出版された。
翌年再びウィーンに居を移し、ブライトコプフ社にモーツァルト全集の出版を要請するかたわら(ケッヘル没年の1877年にようやく刊行が開始される)、モーツァルト関連の小論を発表したり、ベートーヴェンの書簡集を編纂したり、オーストリアの宮廷音楽の歴史に関する本を出版するなど旺盛な活動を行う。1871年ヨハン・ヨーゼフ・フックス研究の功績を讃えられてウィーン楽友協会の名誉会員になった。翌年作品目録を附録とするフックス伝を刊行。1877年、ウィーンにて死去。追悼式ではモーツァルトの『レクイエム』が演奏された。中央墓地に眠っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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