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ルードヴィッヒ・フォン・クラップ : ミニ英和和英辞書
ルードヴィッヒ・フォン・クラップ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ルードヴィッヒ・フォン・クラップ ( リダイレクト:レネ・ラサルテス ) : ウィキペディア日本語版
レネ・ラサルテス[ちょうおん]

レネ・ラサルテスRene Lasartesse、本名:Edouard Probst1928年1月21日 - )は、ヨーロッパを主戦場としていたスイス出身の元プロレスラー
ジャック・デ・ラサルテスJack de Lasartesse)またはルードヴィッヒ・フォン・クラップLudvig von Krupp)のリングネームでも知られ、中欧貴族出身を自称する高慢なヒールとして、欧州各国をはじめアメリカ日本でも活躍した。
== 来歴 ==
1953年ドイツのプロレスラー兼プロモーターだったポール・バーガーのスカウトでデビュー〔。同年のケルンおよび翌1954年ビーレフェルトでのトーナメントで優勝を果たし〔、1957年よりルードヴィッヒ・フォン・クラップと名乗ってアメリカに進出〔。現在のWWEの前身団体である東部地区のNWAキャピトル・レスリングに参戦し、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにも出場。バディ・ロジャースのタッグパートナーを務め、アントニオ・ロッカからも勝ち越しを収めたという〔。
1960年代からは再びヨーロッパに戻り、イギリスでは1965年ロンドンスカイ・ハイ・リーと組み、後にアメリカでラサルテスの貴族ギミックを継承することとなるアル・ヘイズらと対戦。本拠地のドイツではハノーバー・トーナメントに連続出場し、ホースト・ホフマンも参加した1969年の大会では日本の清美川と同率優勝、翌1970年には単独優勝を果たした。
1970年7月、当時ヨーロッパを外国人選手の主要招聘ルートとしていた国際プロレスに、フランスでのリングネームでもあったジャック・デ・ラサルテスの名義で初来日(来日時の表記・呼称は「ジャック・デ・ラサルテーズ」)。同じく初来日のエドワード・カーペンティアと並ぶ外国人エースの一角として、当時サンダー杉山が保持していたIWA世界ヘビー級王座に挑戦、ジョニー・コワルスキーをパートナーに杉山&グレート草津IWA世界タッグ王座にも挑戦した。なお、1950年代末のアメリカ遠征でも邂逅していたカーペンティアとは、来日第1戦となる7月8日の横浜大会にてシングルマッチで対戦している〔。
1970年代もドイツを活動の拠点に、1978年11月にはローラン・ボックアントニオ猪木を日本から招聘してプロデュースした欧州世界選手権シリーズ "Inoki Europa Tournee 1978(イノキ・ヨーロッパ・ツアー1978)" に参戦。ボックをはじめウィルフレッド・ディートリッヒやウィレム・ルスカらが参加したツアー中、猪木とは最多の6試合を闘った(戦績は2つの反則負けを含む5敗1分)〔。なお、ボックはプロとして悪役に徹しきったラサルテスのショーマンシップを高く評価しており〔、興行の目玉だった猪木との試合を数多くマッチメイクしたのも、開催地での彼のネームバリューを当て込んでのものだったという〔『Gスピリッツ Vol.22』P76-77(2012年、辰巳出版、ISBN 4777809846)〕。翌1979年12月にもボック主催の連続興行に出場し、ドルトムントオッフェンブルクにてアンドレ・ザ・ジャイアントとハンディキャップ・マッチで対戦した〔『Gスピリッツ Vol.23』 P77(2012年、辰巳出版、ISBN 4777810054)〕。
その後、1981年12月にはオットー・ワンツディック・マードックザ・デストロイヤームース・モロウスキー伊藤正男などが参加したブレーメンのトーナメントに優勝。以降、1980年代はワンツ主宰のCWAを主戦場に、トニー・セント・クレアースティーブ・ライトピート・ロバーツらと対戦〔。1984年はアメリカから遠征してきたバロン・フォン・ラシクともタッグを組み〔、1986年8月にはオーストリアウィーンにてブル・パワーこと後のビッグバン・ベイダーと引き分けている〔。
1990年の引退後は、母国スイスのライナハに居住〔。なお、現役時代の彼は新人選手のトレーナーも兼任しており、ミレ・ツルノロビー・ブルックサイドなどのほか〔、アマチュアからプロに転向して間もなかった頃のローラン・ボックの指導にも携わっていたという〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レネ・ラサルテス」の詳細全文を読む




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