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ルーマニアのユダヤ人の歴史 : ミニ英和和英辞書
ルーマニアのユダヤ人の歴史[るーまにあにおけるゆだやじんのれきし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ユダヤ人 : [ゆだやじん]
 【名詞】 1. Jew 2. Jewish person
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1
歴史 : [れきし]
 【名詞】 1. history 

ルーマニアのユダヤ人の歴史 : ウィキペディア日本語版
ルーマニアのユダヤ人の歴史[るーまにあにおけるゆだやじんのれきし]

ルーマニアにおけるユダヤ人の歴史 (ルーマニアにおけるユダヤじんのれきし、ヘブライ語: ההסטוריה של היהודים ברומניה イディッシュ語: יידישע געשיכטע פון רומעניע, ルーマニア語: )では、現在のルーマニア領内で最初に言及された時からの、ユダヤ人の歴史を記す。
18世紀までユダヤ人社会は小さなものであったが、1850年頃から増加し始め、特に第一次世界大戦後の大ルーマニア領土の確立後にさらに増えた。圧倒的多数の共同体は都会的な形態をとっていたにもかかわらず、田園地帯にも居住者のいる多様なコミュニティーで、ユダヤ人はルーマニア社会の中で宗教的迫害人種差別の標的にされた。19世紀後半からユダヤ人問題()と市民権に対するユダヤ住民の権利との議論が戦わされ、ルーマニアでホロコーストの一部をなすジェノサイドが引き起こされたのだった。後にアリヤー () (イスラエルへの帰還運動)が盛んとなって、現在のルーマニアにあるユダヤ人社会の人口は劇的に減少した。
==初期==
後にルーマニアとなる地でユダヤ人社会が形成されたのは、ローマ帝国が属州ダキアを支配していた2世紀頃である。碑文と硬貨がサルミゼゲトゥサオルショヴァ()で発見されている。
カライ派信奉者の民族集団である() は、クマン人から発生したともいわれ、発祥については現在も議論が続いているが、現在のルーマニアの一部を含む黒海沿岸に固定されたユダヤ人の存在があったことが推測される。この地域には、ドナウ川河口からドニエストル川にかけて通商港クマニア () があった。彼らは16世紀中かまたはもっと早くから、モルダヴィア人の定期市数カ所に姿を現していた〔Rezachevici, September 1995, p.60〕。最古のユダヤ人(ほぼセファルディム)の存在は、1330年に記録されたモルダヴィアのチェタテア・アルバ(、現在のウクライナ、ビルホロト=ドニストロフスクィイ (、:en:Bilhorod-Dnistrovskyi)での文献に残る。ワラキアでは、ブカレストで生活するユダヤ人について1550年代に初めて言及された〔Djuvara, p.179; Giurescu, p.271〕。14世紀半ば、将来ルーマニア領となる地は、ハンガリーラヨシュ1世によってハンガリーとポーランド王国から追放されたユダヤ人の重要な避難場所となっていた。トランシルヴァニアでは、ユダヤ系ハンガリー人らが1492年頃、トランシルヴァニア・ザクセン人の要塞にいたと記録された〔Rezachevici, September 1995, p.59〕。
モルダヴィア公ロマン1世(在位:1391年-1394年?)は、ユダヤ人一人につき3ターラーの税を支払うのと交換に、モルダヴィアでの軍役を免除した。モルダヴィアでは、シュテファン大公(1457年-1504年)も報酬を持ってユダヤ人を処遇した。ヤシのイサアク・ベン・ベニヤミン・ショル(Isaac ben Benjamin Shor、白羊朝スルタン、ウズン・ハッサンに元々雇われていた。通称イサク・ベグ)は、ストルニク(元々はボイエリ () の要職。宮廷での執事)に任命され、すぐ後にロゴファト(、国務長官)に昇進した。彼はボグダン3世盲目公と、その息子で後継者シュテファンの二代に渡って仕えた。
この時代、ドナウ公国(ワラキア及びモルダヴィア両公国の総称)はオスマン帝国の宗主権下にあり、セファルディムの幾人かが住んでいたイスタンブルからワラキアへ移住した。ポーランドと神聖ローマ帝国から来たユダヤ人らがモルダヴィアに定住した。彼らがオスマン帝国政府の高官を務め、外国人債権者と貿易業者の共同体の多数を占めたことから〔Rezachevici, September 1995, p.60〕、ユダヤ人は2公国のホスポダル(、実力者)たちによく思われず、苦しめられた。モルダヴィア公シュテファニツァ(Ştefăniţă、1522年)は、前任の2人の公らによって与えられたユダヤ人商人のほぼ全ての特権を引き出した。ウシの貿易をするユダヤ人が脱税に従事していたと断罪した後、ペトル・ラレシュ公()は1541年にユダヤ人の富を没収した〔Rezachevici, September 1995, p.60〕。アレクサンドル・ラプシュネアヌ公()はその最初の時代(1552年-1561年)、その他の範疇の階層と並んでユダヤ人迫害を行った。それはギリシャ人ルーテル教会信徒で、傭兵出身のイオアン・ヤコブ・ハラクリデス()がラプシュネアヌを追放するまで続いた。ハラクリデスは、対ユダヤ人の課題には寛大であった。1564年にラプシュネアヌが公位に返り咲くと、彼は迫害を再開した。数多くの公たちに融資を行っているトルコと在ワラキア及びモルダヴィアのユダヤ人たちは、宗主国トルコへの朝貢要求が増えると増加し、1550年以降役職をあてがわれた(1570年代では、ユダヤ系の強力なナクソス公 () ヨセフ・ナシが知られる。彼はヘラクリデスとラプシュネアヌが公位に就いた際の黒幕であった)。この時期を通して、いくつもの血にまみれたユダヤ人に対する暴力事件が、債務を返済できなくなった公らによって扇動された〔Rezachevici, September 1995, p.60-61〕。
ペトル・シュキオプル公()の最初の短い治世の間(1574年-1579年)、主としてポーランド出身の貿易業者である在モルダヴィアのユダヤ人たちは、地元モルダヴィア人らと競争していた。彼らは重税を課されて最後には追放された〔Rezachevici, September 1995, p.61〕。1582年、シュキオプル公はユダヤ人医師ベンヴェニステの助けを得てモルダヴィア支配権を取り戻した。ベンヴェニステは、自分と同じ信仰を持つ者たちのために公に影響を及ぼすよう尽力した。
ワラキアでは、ワラキア公アレクサンドル2世ミルチャ(、在位:1567年-1577年)が私設秘書兼助言者として、ユダヤ人イサイア・ベン・ヨセフを雇った。彼は同胞に替わり自分の影響力を行使した。1573年、宮廷で陰謀を企んだとしてイサイアは解雇されたが、彼はさらに被害を受けることはなかった。ただちに彼はワラキアを離れてモスクワ大公イヴァン4世に仕えた。前述のベンヴェニステの友であるソロモン・アシュケナジの努力を通じ、アロン圧制公()はモルダヴィア公位についた。それにもかかわらず、新たな支配者はヤシ在住の19人のユダヤ人債権者を、裁判なしに斬首刑に処した〔Rezachevici, September 1995, p.61〕。同じ時期にワラキアでは、ミハイ勇敢公()の治下でユダヤ人債権者に対する暴力的抑圧が頂点を迎えていた。ミハイ公は、1594年にブカレストでトルコ人債権者らを殺害した後、自身がルメリア遠征を行うと、ドナウ南岸へ移住したユダヤ人に対して、暴力を振るった(一方で、トランシルヴァニア在住のユダヤ人とは良好な関係を維持していた)〔Rezachevici, September 1995, p.61-62〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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