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ルーマニア人の王(〔Romanian coins 〕)、ないしルーマニア国王()は、1881年から共和制が宣言された1947年までの間、ルーマニア王国に君臨した君主の公的称号である。 == 概史 == オスマン帝国の藩国であるワラキアとモルダヴィアが1859年にであるアレクサンドル・ヨアン・クザによって統一された1862年以来、国はルーマニア公国()と呼ばれた。クザは1859年に分離した公国の公となった。クザは1866年にルーマニア議会によって廃位されたが、この時に議会は統一された公国の君主をドイツ諸侯に要請し、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のカロル1世が新たなルーマニア公となった。 オスマン帝国からのルーマニアの独立は1878年のベルリン会議で認められ、公国は1881年に主権のある王国となり、カロル1世は国王となった〔http://www.archive.org/stream/reminiscencesofk00kremiala "Reminiscences of the KING OF ROUMANIA", Edited from the original with an Introduction by Sidney Whitman, Authorized edition, Harper& Brothers: New York and London, 1899.〕。 カロル2世(1938年 - 1940年)とイオン・アントネスク元帥(1940年 - 1944年)の独裁体制であった1938年から1944年までの期間を除き、ルーマニア王国は立憲君主制であった。1944年8月23日、ミハイ1世は1923年の民主的な王室憲法を最後に回復した。しかし、その後の(2番目の)統治期間(1940年 - 1947年)には、ミハイ1世は、憲法への宣誓と議会(1946年に最初に一時停止してすぐに復活させた)の信任抜きで、憲法に違反した王として統治した。ミハイ1世は戴冠式の代わりに〔Fundamental Rules of the Royal Family of Romania , The Romanian Royal Family website as retrieved on January 9, 2008〕、2度目の即位から間もない1940年9月6日に、ブカレストの総主教座大聖堂にてルーマニア正教会総主教によって王として聖別された〔 "The Joys of Suffering," Volume 2, "Dialogue with a few intellectuals" , by Rev. Fr. Dimitrie Bejan – "Orthodox Advices" website as of June 9, 2007〕。ミハイ1世はこのように、聖なる権利による唯一の「神の恩寵下にある」〔完全に非憲法的な王として2回目の統治を行った。しかし、法的にはミハイ1世は軍の最高指導者や全権を有するの任命といった幾つかの大権を除き、ほとんどの権限を行使することが出来なかった〔 Ioan Scurtu, Theodora Stănescu-Stanciu, Georgiana Margareta Scurtu, ''"The History of the Romanians between 1918-1940" ("Istoria românilor între anii 1918–1940")'' , page 280.〕。 1927年にフェルディナンド1世が没すると、息子カロルがいるにもかかわらず、その息子のミハイ1世(フェルディナンド1世の孫)が据えられた。ミハイ1世の最初の統治は、しばしば愛人とヨーロッパに休息の地を求めて国を留守にしていた父カロルの帰国と即位宣言により、わずか3年で終わりを迎えた。カロル2世は当初ルーマニアを統治することは望んではおらず、父フェルディナンド1世の前で、公的文書により自身の王位請求権を放棄したにもかかわらず、不満を抱く一部の政治派閥によって企てられた突然の「クーデター」の際、王位を請求するよう強要された。 カロル2世の10年にわたる統治は1940年に突然終わりを告げた。8月30日に発表されたドイツとイタリアの仲裁による第二次ウィーン裁定で、トランシルヴァニアをハンガリーに割譲せざるを得なくなったカロル2世の威信は急速に低下した。9月6日、イオン・アントネスクが主導したクーデターにより、カロル2世は退位を強要され、装甲列車で国外退去した。カロル2世は最終的にポルトガルに落ち着き、愛人マグダ・ルペスクと結婚した。その後「プレイボーイ王」がルーマニアに呼び戻されることはなかった。 ミハイ1世の第2の在位期間の大半は国家指導者となったイオン・アントネスク元帥によって統治された。ルーマニアはドイツと同盟を結んで独ソ戦を戦ったが、1944年にはソヴィエト赤軍がルーマニア東部に迫った。ミハイ1世は1944年8月23日にアントネスクを解任、ドイツとの同盟を破棄した(ルーマニア革命)。しかし赤軍と同盟を結んでドイツと戦ったにもかかわらず、ソヴィエトによるルーマニア占領が1945年に始まった。1947年12月にルーマニア共産党員(「自由主義者」と呼ばれた)はソヴィエト占領軍の銃剣と戦車で舞い戻り、君主制の廃止を宣言した。ミハイ1世は退位を強要されたが、国外退去することを許された。 1989年に共産主義政権が崩壊すると、ミハイ1世はルーマニアへの帰国を果たした。元国王はルーマニア国民から好意的に受け入れられ、とりわけブカレスト市街では多くの群衆から熱烈な歓迎を受けた。現在のミハイ1世はルーマニアにおいて公的な地位を持っていないが、ルーマニアの現状に対する遠慮ない発言を続けている。また、大統領や首相はミハイ1世との会談をたびたび行っており、旧王室とルーマニア政府との関係は決して悪くはない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルーマニア国王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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