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ルーム・セルジューク朝(ルーム・セルジュークちょう、1077年 - 1308年)は、セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として分裂して誕生しアナトリア地方を中心に支配したテュルク人の王朝。当初、首都はニカイア(現在のイズニク)に定められていたが、1097年に第1回十字軍によってニカイアが占領されたため、再びコンヤを都とした。「ルーム」とは「ローマ」の意味で、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)領であったアナトリアの地を指す言葉としてイスラム教徒の間で用いられ、アナトリアを拠点としたことからルーム・セルジューク朝という。 == 歴史 == === 建国初期 === 建国者のスライマーン1世・イブン=クタルミシュは、セルジューク家の祖セルジュークの玄孫にあたる〔井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、151頁〕。スライマーンの父クタルミシュはアルプ・アルスラーンとセルジューク朝の王の地位を争うが、1063年のデヘ・ナマクの戦いで敗れ、敗走の途上で没した〔井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、151-152頁〕。敵対者の子であるスライマーンは命こそ助けられたが、王族としての扱いは受けられなかった〔井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、152頁〕。 1071年のマラズギルトの戦いにおけるセルジューク朝の勝利後、ビザンツ帝国の軍事的影響力が弱まったアナトリアではトゥルクマーン系遊牧民の進出が始まる〔井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、150頁〕〔清水宏祐「イラン世界の変容」『西アジア史 2 イラン・トルコ』収録(永田雄三編、新版世界各国史、山川出版社、2002年8月)、94頁〕。マラズギルトの戦勝者であるスルターン・アルプ・アルスラーンには積極的にアナトリアに進出する意図は無く〔、アルプ・アルスラーンの跡を継いでスルターンに即位したマリク・シャーは、スライマーンとマンスールの兄弟に80,000戸のトゥルクマーンを与えてアナトリアの統治を命じた〔ドーソン『モンゴル帝国史』4巻、83頁〕。1074年から1075年の間にスライマーンはニカイアを占領〔、ビザンツ皇帝と同盟してアナトリアの君主の地位をうかがうマンスールに勝利する〔アクシト『トルコ 2』、16頁〕。そして1077年にスライマーンはセルジューク朝からアナトリアの支配権を認められ〔、独立を宣言するが〔鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、29頁〕、大セルジューク朝の君主と異なり「スルターン」の称号は名乗らなかった〔マントラン『改訳 トルコ史』、22頁〕。ビザンツと協定を結んだスライマーンはアナトリア南部に進攻し、タルススなどの都市を獲得した〔アクシト『トルコ 2』、17頁〕。さらにスライマーンは東方に進み、1084年12月(あるいは1085年〔)に小アルメニア領のアンティオキア(現在のアンタキヤ)を制圧するが、スライマーンがシリアへも進出したために、他のセルジューク朝の王族との間に対立が生まれる〔。1086年6月にスライマーンはシリア・セルジューク朝の創始者トゥトゥシュとの戦いに敗れ、落命した〔。成人していなかったスライマーンの子クルチ・アルスラーン1世はホラーサーン地方に召還され〔アクシト『トルコ 2』、18頁〕、マリク・シャーの元に留められた〔マントラン『改訳 トルコ史』、23頁〕〔。指導者を欠いたアナトリア地方では領主たちが独立して互いに争い〔、セルジューク朝の支配領域はアルメニアにまで後退した〔。 マリク・シャーの没後、1092年にクルチ・アルスラーンは解放されてアナトリアの統治を命じられ、ニカイアに入城する〔〔。1096年、アナトリアに上陸した十字軍(第1回十字軍)が、ニカイアを包囲する事件が起きる(ニカイア包囲戦)〔。クルチ・アルスラーンはマラティヤ包囲中に十字軍の出現を知り、ニカイアに戻るが敗れ、翌1097年に首都を失った。ルーム・セルジュークはそれまで敵対関係にあったトゥルクマーン系の国家ダニシュメンド朝と同盟して十字軍と戦うが、ドリレウム(現在のエスキシェヒール)の戦いに敗れる(ドレリウムの戦い)〔〔三橋『トルコの歴史』、40-41頁〕。1097年8月にコンヤ、ヘラクレア(現在のエレーリ)、カエサレア(現在のカイセリ)が十字軍に占領され、ルーム・セルジュークが制圧していたエーゲ海沿岸部の地域はビザンツによって奪い返された〔。トゥルクマーン諸勢力は十字軍に対抗するために連合し、1101年8月のミラノ大司教アンセルモの撃破を皮切りにヌヴェール伯、アキテーヌ・バイエルン軍を破り(1101年の十字軍)、トゥルクマーンたちは勢力を回復した〔マントラン『改訳 トルコ史』、24頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルーム・セルジューク朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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