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ルー・テーズ(Lou Thesz、本名:Aloysius Martin Thesz、1916年4月24日 - 2002年4月28日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ミシガン州バナット出身のハンガリー系アメリカ人。 ファミリーネームの "Thesz" は英語圏では「セーズ」とも発音される(出自であるハンガリーでの原音は「セッズ (Thész) 」)。日本では「鉄人」の異名を持ち、多くのレスラーから20世紀最強であるといわれた、不世出のレスラーである。16歳でのデビューから、74歳での引退まで実に58年間もの現役生活を通した。 == 来歴 == 1916年4月24日、 ミシガン州バナットにて、オーストリア・ハンガリー帝国からのハンガリー人移民の靴修理工でレスリング選手でもあった父・ティヤシュ(ティザ)・マールトン(Tijas (Tiza) Márton)と、ドイツ人移民の母との間に生まれた。生誕時の名はティヤシュ(ティザ)・ラヨシュ(Tijas (Tiza) Lajos)で、他に3人の姉妹がいた。 1918年に一家はミズーリ州セントルイスへ移住。ファミリーネームもセーズ(Thesz)に改められ、アメリカ式に父親のマールトンはマーティン・セーズ(Martin Thesz)、ラヨシュはルー・セーズと改名。以降、幼少期から父マーティンにグレコローマン・スタイルのレスリングの手ほどきを受けて育つ。父親に連れられてしばしばプロレス観戦に出かけることもあった〔『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.21-26.〕。 1933年9月、ミズーリ州セントルイスのハリー・クック・アリーナにて、ジョン・アンダーソンを相手に16歳でプロレスのデビュー戦を行い、引き分ける。若い頃よりスター選手に会う機会に恵まれ、ファーマー・バーンズ、フレッド・グラブマイヤーらに遭遇している〔『鉄人ルー・テーズ自伝』, p.80.〕。1936年 頃、セントルイスのジムにてエド "ストラングラー" ルイスと出会い、スパーリングも行う〔『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.81-87.〕。後年、ルイスはテーズの専属マネージャーとなる。 1937年1月、当時新聞記者だったサム・マソニックと邂逅。マソニックは熱心なプロレスファンでもあり、30日間にわたりテーズの特集を組んだ。これを機にテーズは一気に知名度を上げる。なお、マソニックはのちに新NWA立ち上げの中心人物となり、テーズとはプロモーターとプロレスラーの関係でNWAを発展に導いている〔『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.106-107.〕。 1937年12月29日、 ジョン・ペセクを破り21歳でMWA世界ヘビー級王者となる。当時、アリ・ババやエベレット・マーシャルなど、概ねキャリア10年程度、30歳前後で世界王者に就くのが慣例であり〔『鉄人ルー・テーズ自伝』, p.106.〕、テーズの世界王者奪取は異例の早さであった。しかし1月の防衛戦で耳を負傷し、トレーニングも出来ないまま臨んだ2月11日のスティーブ・ケーシー戦に敗れて王座転落〔『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.107-108.〕。 1939年2月23日、ミズーリ州セントルイス(あるいはコロラド州デンバー)でエベレット・マーシャルを破り、ナショナル・レスリング・アソシエーション(旧NWA)版の世界ヘビー級王者となった。 1939年6月23日または7月19日、テキサス州ヒューストンでブロンコ・ナグルスキーに敗れNWA王座から陥落。この際に左膝を負傷し、約1年にわたる長期欠場を余儀なくされる。なお左膝は生涯テーズの古傷となり、70歳で右臀部を手術したのも、左膝を庇う行動を長年続けてきたためだと述懐している〔『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.122-123.〕。 1943年、アメリカ合衆国陸軍に入隊、体育教官となった。テキサス州ヒューストン駐屯地で約4年間過ごした。この際もプロレス興行は継続する(当時は興行売り上げの20%が軍費として徴集されるシステムとなっており、軍費獲得のためにも興行は歓迎された)〔『鉄人ルー・テーズ自伝』, pp.125-126.〕。 1946年9月11日、カナダ・モントリオールでボビー・マナゴフを破り、モントリオール版AWA世界ヘビー級王座を獲得。1947年2月20日にマナゴフに奪回された後、同年4月16日に返り咲くが、同地でユーボン・ロバートに敗れ王座から陥落。 1947年4月25日、セントルイスでホイッパー・ビリー・ワトソンを破り、NWA世界ヘビー級王座を獲得。1947年11月21日にビル・ロンソンに敗れるまで保持。 1948年7月20日、ビル・ロンソンを破り旧NWA世界ヘビー級第23代王者(NWA通算で第38代王者)となった。連勝記録の始まり。1949年11月、新NWAによる王座の正当化により、第38代王者(新NWA第2代王者)と認定された。過去獲得したものも第23、26、36代(旧NWAでは8、11、21代)として認定された。 1955年5月22日、レオ・ノメリーニに反則負けを喫し、連勝記録が止まる(反則裁定のためタイトルは移動せず)。記録は引き分けをはさんで936連勝(テーズ自身は936連勝記録を否定している)。 1956年3月、ホイッパー・ビリー・ワトソンに敗れ第38代NWA王座から陥落するも、同年11月9日、ワトソンを破り奪回に成功。 1957年10月、日本プロレスに初来日。力道山とNWA世界ヘビー級選手権で2度にわたり名勝負を繰り広げた。 1957年11月14日、トロントでディック・ハットンに敗れNWA世界ヘビー級王者から陥落。1958年6月、世界各国を回り積極的に防衛を重ねた実績が認められ、NWA本部からインターナショナル・ヘビー級王座の初代王者に認定された。しかし、1958年8月27日 、力道山に敗れてインターナショナル・ヘビー級王座から陥落した。 1963年1月24日、トロントでバディ・ロジャースを破りNWA世界ヘビー級王座に返り咲く。これが最後の戴冠となり、1966年1月7日にジン・キニスキーに敗れるまで保持した。 1966年2月28日、日本プロレスに特別参加し、ジャイアント馬場の持つインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦。結果は馬場が2度目の防衛に成功。テーズから2ピンフォール取っての防衛は馬場の大きな勲章となった。同年10月14日、カリフォルニア州ロサンゼルスにてバディ・オースチンからWWA世界ヘビー級王座を奪取したが、同月28日にマーク・ルーインに敗れ短命王者となっている。 1967年6月、初代TWWA世界ヘビー級王者に認定され、翌1968年1月に国際プロレス(当時はTBSプロレス)に参戦。グレート草津の挑戦を受け、1本目で実力を見破り、バックドロップで草津を失神させる。2本目は棄権、テーズが防衛に成功。草津をスターに仕立てようとするTBSの目論みは失敗に終わった。 1973年10月14日、新日本プロレスに初登場、カール・ゴッチと組んでアントニオ猪木&坂口征二と「世界最強タッグ戦」を行う。このときテーズは57歳、ゴッチは49歳であったが、当時の両者の名声から、この年齢にかかわらず「世界最強タッグ」の看板に説得力を持たせることができた。 1975年10月9日、新日本プロレスに再来日し、アントニオ猪木の持つNWF世界ヘビー級王座に挑戦する。猪木にブロックバスター・ホールドからフォールされ王座獲得はならなかったが、試合開始直後の先制のバックドロップなど健在をみせつけた。 1977年8月15日、前年に旗揚げされたメキシコのユニバーサル・レスリング・アソシエーションから、初代UWA世界ヘビー級王者に認定された。1978年8月27日、カネックに敗れUWA王座陥落。 1980年9月、テネシー州メンフィスのコンチネンタル・レスリング・アソシエーションにてビル・ロビンソンのCWA世界ヘビー級王座に連続挑戦。同時期、CWAを外国人選手の供給ルートとしていた国際プロレスに特別レフェリーとして度々来日。エキシビション・マッチも行った。1981年1月に開催されたルー・テーズ杯争奪戦の前期予選にも来日し、特別レフェリーを務めた。 1983年4月、全日本プロレスに来日。ルー・テーズ杯争奪リーグ戦の決勝戦(越中詩郎VS三沢光晴)のレフェリーを務めた。全日本にはこの時期数回来日し、ジャンボ鶴田にバックドロップを伝授している。 1985年9月19日、新日本プロレスに来日。東京都体育館にて行われたアントニオ猪木VS藤波辰巳のIWGPヘビー級王座戦の特別レフェリーを務めた。 1986年、右臀部を手術する。以後レスラーとしてはセミリタイア状態となった。 1987年11月16日、WWFのニュージャージー州メドーランド大会でのオールドタイマーズ・バトルロイヤルに出場、決勝でパット・オコーナーをオーバー・ザ・トップロープで破り優勝(他の参加選手は、ジン・キニスキー、エドワード・カーペンティア、ボボ・ブラジル、クラッシャー・リソワスキー、キラー・コワルスキー、ニック・ボックウィンクル、レイ・スティーブンス、ペドロ・モラレス、アーノルド・スコーラン、アート・トーマス、チーフ・ジェイ・ストロンボー、バロン・シクルナ、ジノ・ブリット、トニー・ガレア、レネ・グレイ、ドミニク・デヌーチ、アル・コステロなど)。 1990年12月26日、静岡県浜松アリーナで試合。蝶野正洋と対戦しSTFで敗れる。 2002年3月9日、妻チャーリーとともに訪日。U.W.F.スネークピットジャパン代表の宮戸優光の結婚式に出席。 2002年4月28日、フロリダ州オーランドの病院で心臓バイパス手術を受けたが、肺炎を併発させて心臓疾患にかかり死去。。 2016年4月2日、プロレス界での功績を称え、WWE殿堂のレガシー部門に迎えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルー・テーズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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