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レイモン3世 ( リダイレクト:レーモン3世 (トリポリ伯) ) : ウィキペディア日本語版 | レーモン3世 (トリポリ伯)[れーもん3せい]
レーモン3世(Raymond III, 1140年 - 1187年)は、トリポリ伯。母オディエルヌはエルサレム王ボードゥアン2世の娘〔A.ジョティシュキー、p.152〕。1164年、アルターの戦闘で捕虜となり、10年間牢につながれた。解放後の1174年、ゴーティエ・ド・サントメールの寡婦でガリラヤ女公(ティベリアス領主)のエスティヴァ〔S.Runciman、Genealogical Trees. 〕と結婚し、ティベリアスを領地として得た〔『十字軍全史』、p.62〕。当時、フランク人でもっとも賢明な人物といわれ〔ジョルジュ・タート、p.112〕、1174年にエルサレム王ボードゥアン4世(従兄の子にあたる)の摂政となり、のちにその甥で後継者のボードゥアン5世の摂政も務めたが、1186年、ボードゥアン5世の死後エルサレム王位についたギー・ド・リュジニャンと対立した。1187年春にサラディンが侵攻した際には、独断で休戦協定を結んだが、その後ルノー・ド・シャティヨンやテンプル騎士団総長ジェラール・ド・リドフォールがムスリムを襲撃し、休戦は破棄された状態となった。同年7月2日、サッフリーヤに陣をかまえる十字軍国家のフランク軍をおびき出すため、サラディンはレーモンの妻とその子(前夫との息子)のいるティベリアスを攻撃した。7月4日、フランク軍はヒッティーンの戦いにおいてムスリム軍に大敗し、エルサレム王ギーやルノーは捕虜となったが、レーモンは先遣部隊を率いてムスリム軍の包囲を突破し、逃げ切ることができた〔A.ジョティシュキー、p.162〕。しかし、レーモンはその後まもなくしてトリポリで病没した。 レーモンと妻エスティヴァの間に子はなく、レーモンはアンティオキア公ボエモン3世の長子レーモン(4世)を養子としてトリポリ伯位の後継者に指名した。しかし、ボエモン3世の意向により、トリポリ伯位はレーモンの弟ボエモン4世に継承された。レーモン(4世)は父ボエモン3世に先立って死去した。 == 脚注 == 〔
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