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レイ・ミランド(Ray Milland, 出生名: Reginald Alfred Truscott-Jones, 1907年1月3日 - 1986年3月10日)は、イギリス・ウェールズ出身の俳優。主にハリウッドで活躍した。カンヌ国際映画祭最優秀主演男優賞と米国アカデミー賞主演男優賞の両方を受賞した初めての俳優である。また、オスカーを受賞した最初のウェールズ出身の人間である。 == 来歴 == 父は溶鉱炉の設計士。ロンドンのキングズ・カレッジ卒業後、近衛騎兵連隊に入り3年務めた後に、たまたま映画スタジオにいる女友達のエステル・ブロディを訪れたところをスカウトされる〔Milland (1974) pp.75-78〕。1929年にスパイク・ミランドの芸名で英国映画界入り。数度芸名を変え、レイ・ミランドになった経緯は、諸説あり。数本を撮ったあと、脚本家のアニタ・ルースの勧めで1930年にハリウッドに進出。1931年にメトロ・ゴールドウィン・メイヤーと契約した。 1932年までに8本の映画に出演したが芽が出ずクビになり、一度英国に戻るが、もう一度ハリウッドで勝負しようと再び渡米して、本格的にデビューする。そして1934年に『ボレロ』に出演したことでついに認められる。1930年代から1940年代半ばまでは明るいロマンチックな役柄が多かった。1935年にフレッド・マクマレー、クローデット・コルベールと共演した『輝ける百合』でスターの足がかりを掴み、1940年の『French Without Tears』で大スターの仲間入りを果たす。 二枚目ながらもしばしば大根役者と揶揄されていたが、1945年、ビリー・ワイルダーの『失われた週末』でアルコール使用障害に苦しむ作家を演じ、アカデミー主演男優賞を獲得。ハリウッドでの地位を決定付けた。受賞した際、受賞スピーチで一言も言わず、ただ深々とお辞儀をしただけであった。1954年にはアルフレッド・ヒッチコック監督の『ダイヤルMを廻せ!』に主演。自身の代表作の1つとなった。その後は1955年の『白昼の対決』を機に監督業にも乗り出している。1960年代以降はあまり作品に恵まれずB級映画とテレビ出演が主となっていったが、1970年の『ある愛の詩』で主役のライアン・オニールの父親を演じた。 1986年カリフォルニア州トーランスで肺癌のため死去。81歳だった。プライベートでは妻を愛し、養女を育て上げ、華美なハリウッドを嫌っていたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レイ・ミランド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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