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レオニード・ヴィクトロヴィチ・スルツキー( - 、1971年5月4日 - )は、ロシアの元サッカー選手(GK)、サッカー指導者。メディアによってはレオニド・スルツキの表記もみられる〔uefa.com、goal.comなど〕。ロシアのモウリーニョとも呼ばれる。 == 来歴 == ;選手時代 6歳の時に父親を亡くし、母親の生活を助けるためプロサッカー選手の道へ進む。19歳の時に友人のネコを助けた際に木から落下し左膝を粉砕骨折。この怪我によって選手生活を終えた〔。 ;指導者へ 現役引退後は指導者になることを目指し、ボルゴグラード国立体育大学に入学。さらに同大学院に進み首席で卒業する〔<CSKA躍進の鍵> レオニード・スルツキ 「謎の青年監督の正体」(2/2) Number Web 2010年5月8日 〕。 2004年よりFCモスクワのリザーブチームを指導し、翌2005年にトップチームの監督に就任。2007年にはクラブ史上最高の4位に導いた。2008年から翌年まではクリリヤ・ソヴェトフ・サマーラを指揮した。 ;CSKAモスクワ 2009年10月26日、シーズン途中にファンデ・ラモスの後任としてCSKAモスクワの監督に就任〔CSKAモスクワ、わずか15日で監督解任 nikkansports.com 2009年10月27日〕。周囲の期待以上の手腕を発揮してチームを建てなおすと〔<CSKA躍進の鍵> レオニード・スルツキ 「謎の青年監督の正体」(1/2) Number Web 2010年5月8日 〕、リーグ戦を5位で終えUEFAヨーロッパリーグ出場権を獲得。チャンピオンズリーグ(CL)でも準々決勝まで勝ち進み、ロシアリーグ所属チーム史上初のベスト8進出。しかし、ジョゼ・モウリーニョ率いるインテルの前に敗退した。 2010-11シーズンはリーグ戦を2位で終えCLの出場権を確保。ELのグループリーグは6試合で勝ち点16、得点18、失点3、得失点差+15という圧倒的な強さで突破。ギリシャのPAOKテッサロニキを倒してベスト16に駒を進めたが、その年のヨーロッパリーグ王者になるFCポルトの前にホーム・アンド・アウェー合計1-3で敗れた。ロシア・カップでは前年の二冠王者ゼニト・サンクトペテルブルク、同じモスクワを本拠地とするスパルタク・モスクワを破って決勝進出。2011年5月22日に行われた決勝戦ではアラニア・ウラジカフカスを2-1で破り、監督として初のタイトルを獲得した。 就任3年目の2011-12シーズンはイゴール・アキンフェエフ、本田圭佑、トマーシュ・ネツィド、マルク・ゴンサレスら主力の負傷離脱に苦しむ。リーグ戦はゼニト、スパルタク・モスクワに次ぐ3位。CLは最下位で迎えたグループステージ最終節のインテルナツィオナーレ・ミラノ戦では1-2で勝利を収め、逆転で2季ぶりとなる決勝トーナメント進出を果たしたが〔終盤の勝ち越し点でCSKAが決勝T進出 uefa.com、2011年12月27日閲覧。〕〔CSKA 本田圭ら主力欠場も、大逆転で1次L突破! sponichi.co.jp、2011年12月27日閲覧。〕、モウリーニョ監督のレアル・マドリーに敗れベスト16に終わった。シーズン終了後には辞表を提出したが、会長の慰留を受け続投が決まった〔本田のCSKA監督が続投=ロシア・サッカー 時事ドットコム 2012年6月1日〕。 12/13シーズンはエースであったドゥンビアの怪我による長期離脱があったが本田圭佑やムサ、新戦力のエルムの活躍によりリーグ優勝、ロシアカップ優勝、ロシアスーパーカップ優勝の三冠を飾った。 ;ロシア代表 2015年8月、ファビオ・カペッロの後任としてCSKAモスクワ監督と兼任でロシア代表監督に就任した。監督就任後、ロシアはUEFA EURO 2016予選・グループGで4連勝を飾り、2位で本大会出場権を獲得した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レオニード・スルツキー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Leonid Viktorovich Slutsky 」があります。 スポンサード リンク
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