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レオポルト・アントニーン・コジェルフ(Leopold Antonín Koželuh, *1747年6月26日 プラハ近郊ヴェルヴァリ - †1818年5月7日 ウィーン)は、ボヘミア出身のウィーンの作曲家・音楽教師。生前はドイツ語名レオポルト・アントン・コツェルフ(Leopold Anton Kozeluch)として有名だった。父親アントン・バルトロメウスは教師であり、従兄ヤン・コジェルフも作曲家、娘カタリナはピアニストであった。 地元ヴェルヴァリでアントン・クビックに最初の音楽教育を受け、後に従兄ヤンに師事。プラハのギムナジウムに学んだ後、法学を修めてから音楽に再び専念する。 1771年にプラハの国立劇場において、バレエ音楽によって作曲家デビューを果たす。その後7年間にプラハ国立劇場のために約25曲を作曲。1778年にウィーンに上京し、一時期ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーの薫陶を受ける。短期間のうちに名ピアニストへと腕を上げ、ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイルの後任として、オーストリア帝室音楽教師に就任。1781年には、ザルツブルク大司教の専属オルガニストの職を断っている。 1784年からは楽譜出版業も手掛け、モーツァルトも彼の出版社から作品を出版した〔モーツァルトと同時代の作曲家たちの コジェルフの項目 〕。モーツァルトの死を受けて1792年に帝室宮廷楽長と宮廷作曲家を兼務(俸給は宮廷に嫌われたモーツァルト(700フローリン)の倍以上の1700フローリンだった)。特別な弟子は自宅で個人指導した。 コジェルフはすでに存命中からヨーロッパ全土で評価を受けていた。しかし最晩年になると多くの批評家から、書き飛ばしているという非難の声が次第に高くなっていった。モーツァルトやベートーヴェンから受けた歯に衣着せぬ酷評は、今日になるまで忘れられていない。とはいえ、ベートーヴェン、シューベルトへの影響ははかり知れない。事実、彼の数作品は長らくベートーベンのものと誤認されていたほどである。 コジェルフは熱心なフリーメイソン会士であり、ウィーンのいくつかのロッジに参加している。 == 作品 == バレエの他にオラトリオ、交響曲、ピアノ協奏曲、ピアノ三重奏曲などの作品を多く残した(歌劇も6曲作曲したが全て失われた)。音楽学者ミラン・ポシュトルカが作品を整理し、P(ポシュトルカ)番号を与えた。現在は作品を明示するのに、この番号を使うことが多い。 詳細な作品表が英語版コジェルフの項目にあるので、参照のこと。 *オラトリオ 《エジプトのモーゼ》、P XVI:1 【演奏例 】 *交響曲 ハ長調 Op.24-1、 P I: 6 【演奏例 】 *ピアノ協奏曲 ト長調 Op.11、 P IV: 3 【演奏例 】 *四手連弾ピアノ協奏曲 変ロ長調、P IV:8 【演奏例 】 *クラリネット協奏曲 第1番 変ホ長調、 P V: 1 【演奏例 】 *協奏交響曲(トランペット・ピアノ・マンドリン・コントラバスのための) 変ホ長調、 P II: 1 【演奏例 】 *オーボエ協奏曲ヘ長調 (第2楽章(緩徐楽章)まで完成、終楽章を欠く) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レオポルト・アントニーン・コジェルフ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Leopold Kozeluch 」があります。 スポンサード リンク
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