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レオポルト・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ(独:Leopold Salvator von Österreich-Toskana, 1863年10月15日 - 1931年9月4日 ウィーン)は、オーストリア=ハンガリー(二重帝国)の皇族軍人。最終階級は陸軍中将、砲兵大将。 == 生涯 == トスカーナ大公レオポルド2世の次男カール・ザルヴァトール大公と、その妻で両シチリア王フェルディナンド2世の娘のマリーア・インマコラータの間に長男として生まれた。オーストリア帝室の諸分家の中でも自由主義的な気風の強い旧トスカーナ大公家の子女として育った。全名はレオポルト・ザルヴァトール・マリア・ヨーゼフ・フェルディナント・フランツ・フォン・アッシジ・カール・アントン・フォン・パドゥーア・ヨハン・バプティスト・ヤヌアリウス・アロイス・ゴンツァーガ・ライナー・ヴェンツェル・ガルス(''Leopold Salvator Maria Joseph Ferdinand Franz von Assisi Karl Anton von Padua Johann Baptist Januarius Aloys Gonzaga Rainer Wenzel Gallus von Österreich-Toskana'')である。 1878年に第77歩兵連隊の少尉に任官、1881年から1883年まで帝都ウィーンの技術軍事アカデミー(Technischen Militärakademie)で軍事を学んだ。様々な部隊に所属した後、1887年から1889年まで士官学校で学び、1889年にレンベルク駐屯の第11砲兵連隊所属の少佐となる。1891年に中佐、1892年に大佐と昇進し、レンベルク駐屯の第24歩兵連隊内の大隊を指揮した。1894年9月にアグラム駐屯の第13砲兵連隊付に転任。1896年3月にはアグラム駐屯の第13砲兵旅団の旅団長に任じられ、同年4月に少将となる。1898年に歩兵部に戻って第72歩兵旅団の旅団長となり、1899年に陸軍中将に昇進、アグラム駐屯の第36歩兵師団の師団長となった。1900年から1906年にかけ、ウィーン駐屯の第26歩兵師団の師団長を務めた。1906年10月27日に砲兵大将となり、1907年4月20日に砲兵部総監に任命された。 1889年10月24日ににおいて、スペインのカルリスタ王位請求者であるマドリード公カルロス・マリアの娘ブランカ・デ・ボルボーンと結婚し、間に10人の子女をもうけた。1918/1919年に二重帝国が崩壊し、皇族としての身分と資産を失ったため、妻の実家を頼ってスペインのバルセロナに移住した。1931年、資産の一部を取り戻すべくウィーンを訪れていた際に死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レオポルト・ザルヴァトール・フォン・エスターライヒ=トスカーナ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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