翻訳と辞書
Words near each other
・ レオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホ
・ レオポルト・フォン・シュレンク
・ レオポルト・フォン・ダウン
・ レオポルト・フォン・バイエルン
・ レオポルト・フォン・ブッフ
・ レオポルト・フォン・ブーフ
・ レオポルト・フォン・ヘニング
・ レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン
・ レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン
・ レオポルト・フォン・ランケ
レオポルト・ベルヒトルト
・ レオポルト・ホフマン
・ レオポルト・マクシミリアン・ジョセフ・マリア・アーヌルフ・フォン・バイエルン
・ レオポルト・ミュラー
・ レオポルト・ミュルレル
・ レオポルト・モーツァルト
・ レオポルト・モーツァルト国際ヴァイオリン・コンクール
・ レオポルト・ヤンサ
・ レオポルト・ルジチカ
・ レオポルト・ルジツカ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

レオポルト・ベルヒトルト : ミニ英和和英辞書
レオポルト・ベルヒトルト
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


レオポルト・ベルヒトルト : ウィキペディア日本語版
レオポルト・ベルヒトルト

レオポルト・アントン・ヨハン・ジギスムント・ヨーゼフ・コルジヌス・フェルディナント・ベルヒトルト伯爵(、、1863年4月18日1942年11月21日)は、オーストリアオーストリア=ハンガリー二重帝国)の貴族・外交官。第一次世界大戦開戦時の外相を務めた。
== 経歴 ==
1863年ハンガリーモラヴィアに広大な所有地を持つ地主貴族(ウンガルシッツ(ウヘルチツェ)のベルヒトルト家、)の子としてウィーンに生まれた。1893年に外務省に入省後は、パリロンドンサンクトペテルブルクなどの大使館員を務め、1906年から1911年まで駐大使。
1912年2月17日ボスニア・ヘルツェゴビナ併合によりロシアとの協調関係を破綻させたアロイス・エーレンタール外相の病死により後任の外相に任命された。ベルヒトルト外相にとっての目標はアウスグライヒ制を堅持し、戦争を回避してバルカンにおける列強の協調関係を回復させる点にあり、2次にわたるバルカン戦争に際しては中立を守りつつもブルガリアと協力しセルビア勢力拡大を抑えようとしたが、結局のところ失敗し、セルビアの背後にいるロシアとの関係は悪化の一途をたどった。またブルガリアに接近することによって、ハンガリーが領土問題を抱えていたルーマニアとの対立も激化した。
1914年6月18日サラエヴォでオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントセルビア人民族主義者に射殺されるサラエヴォ事件が起こると、ベルヒトルトは対セルビア強硬策をとり7月23日セルビア政府に10箇条のいわゆる「オーストリア最後通牒」を送付し48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア側は一部を除き要求に応じたが、ベルヒトルトはこれに満足せず7月25日に同国との国交断絶に踏みきった。皇帝フランツ・ヨーゼフ1世や二重帝国のハンガリー首相であったティサ・イシュトヴァーンはセルビアとの開戦に慎重であったが、ベルヒトルトはこれらを押し切る形で7月28日の対セルビア宣戦布告を主導した。セルビアを支持するロシアはこれに対して軍の総動員を指令、ついでドイツがロシアに宣戦したため、欧州全体を巻きこむ第一次世界大戦へと発展した。
ハンガリーのティサ首相と対立、彼の圧力により開戦翌年の1915年1月13日に外相を辞任。第二次世界大戦中の1942年に死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レオポルト・ベルヒトルト」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.