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レオポルド・カルボ=ソテーロ(、1926年4月14日 – 2008年5月3日)は、スペイン・マドリード出身の政治家。1970年代の民主化後もっとも短命だった首相である。 == 経歴 == 1926年4月14日、マドリード生まれ。レオポルドはマドリード土木学校(現・マドリード工科大学)で土木工学を学び、化学工業の労働者として働いた後〔、1967年から1968年にはレンフェの社長を務めた。1965年から1973年にはマドリード市長を務めた。フランシスコ・フランコ死去後の1975年から1976年にはカルロス・アリアス=ナバーロ政権の通産大臣〔、1976年から1977年にはアドルフォ・スアレス政権の公共労働大臣、1980年から1981年にはスアレス政権の第二副首相を務めた〔。1981年2月に民主中道連合(UCD)の分裂の結果スアレスが首相を辞任すると、カルボ=ソテーロがUCDの党首に就任し、UCDはカルボ=ソテーロをスアレスの後継首相に指名した〔立石編(2000)、p.345〕。その後国王の承認を得たが、1981年2月23日の首相信任投票時には、スペイン陸軍や治安警備隊の過激派集団が国会議事堂に突入し、下院議員350人を人質とするクーデター未遂事件、いわゆる23-Fが起こっている〔。2日後の2月25日に改めて行われた信任投票で下院はカルボ=ソテーロを信任し〔立石編(2000)、p.346〕、首相となった。1982年12月に総選挙でフェリペ・ゴンサレスが首相に就任するまで1年10か月間首相を務め、スペインの西欧接近策を進めた。UCD党内には北大西洋条約機構(NATO)加盟に対する慎重論があり、またスペイン社会労働党(PSOE)やスペイン共産党はNATO加盟について可否を問う国民投票の実施を要求したが、カルボ=ソテーロはそれらを押し切って1982年にNATO加盟を決断した〔立石編(2000)、p.347〕〔。カルボ=ソテーロの首相在任時にほぼすべての自治州政府が成立し、カルボ=ソテーロは前任のスアレスが残した問題を処理して成果を挙げたが、1981年後半からUCDは分解しはじめ、カルボ=ソテーロは1982年8月に議会を解散して総選挙に臨んだ〔立石編(2000)、p.349〕。1982年の総選挙では社会労働党に敗れて野党に転じ、民主中道連合は解散した。 カルボ=ソテーロは8人の子を儲けた。2008年5月3日、マドリード州・ポスエロ・デ・アラルコンの自宅で死去した。死因は心停止。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レオポルド・カルボ=ソテーロ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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