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レオーネ・ロベルト・ロベルティ : ミニ英和和英辞書
レオーネ・ロベルト・ロベルティ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

レオーネ・ロベルト・ロベルティ ( リダイレクト:ロベルト・ロベルティ ) : ウィキペディア日本語版
ロベルト・ロベルティ[ちょうおん]

ロベルト・ロベルティ(, 1879年8月5日 - 1959年1月9日)は、イタリア映画監督俳優脚本家である〔Roberto Roberti, Internet Movie Database , 2010年7月9日閲覧。〕本名ヴィンチェンゾ・レオーネ()、ロベルト・レオーネ・ロベルティ()ともクレジットされた〔。日本では『フラ・ディアボロ』公開時に「レオーネ・ロベルト・ロベルティ」と紹介された〔レオーネ・ロベルト・ロベルティ、キネマ旬報映画データベース、2010年7月9日閲覧。〕。
== 人物・来歴 ==
1879年(明治12年)8月5日カンパニア州アヴェッリーノ県トレッラ・デイ・ロンバルディに生まれる〔。
1911年(明治44年)、アクイラ・フィルム製作、アルベルト・カルロ・ロッリ監督、アキーレ・コンサルヴィ主演の短篇映画 ''La bufera'' に出演したのが、もっとも古い映画への出演記録である〔。翌1912年(大正元年)、ビーチェ・ヴァレリアン主演、アントニエッタ・カルデラリやアキーレ・コンサルヴィ、自らも出演する短篇映画 ''La contessa Lara'' を演出して、映画監督としてデビューしている〔。1917年(大正6年)まで同社で短篇を量産するが、1918年(大正7年)、同社を離れ、イタラを経てカエサル・フィルムに移籍する〔。同年以降、フランチェスカ・ベルティーニ主演作を連作し、1920年(大正9年)には彼女の製作会社ベルティーニ・フィルム製作、カエサル・フィルム配給作品を手がける〔。1925年(大正14年)、同社を離れる〔。
満49歳となり、ローマ在住時の1929年(昭和4年)1月3日、妻で元女優のビーチェ・ヴァレリアンとの間に、のちに映画監督となる子息・セルジオ・レオーネが誕生する〔〔, 2010年7月9日閲覧。〕。1930年(昭和5年)、リナ・デ・リグオロ主演の ''Assunta Spina'' を監督したのをもって映画界から一時離れる〔。1939年(昭和14年)、ロベルティにとって初のトーキー、カルロ・ロマーノ主演の ''Il socio invisibile'' を監督、1941年(昭和16年)に2本目のトーキーアルマンド・ファルコーニ主演の ''La bocca sulla strada'' を監督し、ふたたび映画界を離れる〔。第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)、満73歳でアルド・シルヴァーニ主演の ''Il folle di Marechiaro'' を監督して11年ぶりに復帰するが、同作以降に監督作はなく、引退となる〔。
1959年(昭和34年)1月9日、出身地のカンパニア州アヴェッリーノ県トレッラ・デイ・ロンバルディで死去した〔。満79歳没。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロベルト・ロベルティ」の詳細全文を読む




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