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レスリィ・チャータリス : ミニ英和和英辞書
レスリィ・チャータリス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

レスリィ・チャータリス ( リダイレクト:レスリー・チャータリス ) : ウィキペディア日本語版
レスリー・チャータリス[ちょうおん]

レスリー・チャータリス: Leslie Charteris1907年5月12日 - 1993年4月15日)は、推理作家で映画脚本家。シンガポール生まれの中国人イングランド人の混血で、本名は Leslie Charles Bowyer-YinBiography of Leslie Charteris on saint.org〕。サイモン・テンプラー、通称「セイント(聖人)」の冒険を記した多数の小説でよく知られている。
== 生涯 ==
チャータリスは中国人の父とイングランド人の母の間に生まれた。父は医者で、その祖先はの皇帝まで遡ると自称していた〔。チャータリスは幼いころから文章を書くことに長け、ある時など自作の短編小説と詩と論説と記事、果てはマンガまで書いて一冊の雑誌を作ったことがある。ランカシャー フリートウッド の Rossall School に入学。
ケンブリッジ大学キングス・カレッジに入学した年に書いた小説が売れると、大学を辞め作家として1人立ちすることにした。チャータリスは因習にとらわれず、したいことをして裕福になりたいと考えていた。その後もスリラー小説を書きつつ、貨物船での荷役、宿屋のバーテンなど仕事を転々とした。他にも、金を採掘したり、真珠を採ったり、すず鉱山やゴム栽培園で働き、巡回ショーでイギリス中を回り、バスの運転手を勤めた。1926年、彼は姓を法的にチャータリスに変更した。この姓の由来は Francis Charteris(18世紀のスコットランドの貴族)と言われているが、BBC Radio 4 のドキュメンタリー "Leslie Charteris – A Saintly Centennial" でチャータリスの娘が語ったところによれば、電話帳からその姓を選んだだけだという。
長編3作目 ''Meet - The Tiger!''(1928年)で、有名なサイモン・テンプラーが初めて登場し、人気が高まった。しかし1980年に再版された際に、チャータリスは序文でこの作品の出来には不満足であり、単にセイントシリーズの出発点という意味しかないと示唆している。チャータリスは ''Meet - The Tiger!'' を無視して2作目の ''Enter the Saint'' がセイントシリーズの最初だと主張することもあった。例えば、1960年代に Fiction Publishing Company(ダブルデイのインプリント)が再版した ''Enter the Saint'' では、本人が序文でそのように書いている。
小説家としてのライフワークがサイモン・テンプラーを主人公とするセイントシリーズだったのは確かで、他の小説は数少ない。例えば、ディアナ・ダービン主演の ''Lady on a Train'' の脚本を自らノベライズしたものや、Manuel Chaves Nogales の ''Juan Belmonte: Killer of Bulls'' を英訳したものなどがある。セイントシリーズについては長編、中篇、短編を35年間以上書き続けた。ちなみにさらにその後の20年間はゴーストライターにセイントシリーズを書かせ、自分は編集者のような役割を演じ、時には推敲もした。
1932年、アメリカ合衆国に移住。そこで短編小説を書きながら、パラマウント映画の脚本家となり、ジョージ・ラフト 主演の ''The Midnight Club'' の脚本を執筆した。そのころヒンデンブルク号に搭乗してニュージャージー州まで旅したことがある(有名なヒンデンブルク号爆発事故はその翌年)。
チャータリスは中国人との混血であったため、中国人排斥法(中国人の血が50%以上入っている人はアメリカに移住できないとする法律)のせいでアメリカでの永住権を得られなかった。そのため、6カ月ごとにビザを更新する必要があった。その後、議会は彼と彼の娘に帰化資格があると認め、アメリカでの永住権を与えた。
1940年代になると、セイントシリーズを執筆する傍ら、ベイジル・ラスボーン主演のシャーロック・ホームズのラジオドラマシリーズの脚本を書いた。1941年にはライフ誌上でセイントシリーズの短編が写真入りで掲載されたが、その写真でチャータリス本人がサイモン・テンプラーを演じていた。また、セイントシリーズがコミック化され、チャータリスがストーリー原案を作った。
1940年代には、セイントシリーズをベースにした映画がいくつか公開され、それなりに成功を収めた(シリーズをベースにしているが、特定の小説のストーリーに基づいていないものが多い)。
1952年、ハリウッド女優 オードリー・ロング(1922年生)と結婚。2人はイングランドに戻り、チャータリスは最終的にはサリーに落ち着いた。
作家としてはしばらく低迷したが、1962年から1969年、イギリスでロジャー・ムーア主演のテレビドラマシリーズ「セイント 天国野郎」が放送された。
このシリーズでは多くのエピソードがチャータリスの短編をベースにしている。後の方になるとオリジナル脚本も使われ、チャータリスはそれらもノベライズしてセイントシリーズに加えた(''The Saint on TV'' や ''The Saint and the Fiction Makers'' といったそれらの本にはチャータリスが作者として出ているが、実際には別に作者がいる)。その後、短期間ではあるが イアン・オギルビー 主演のテレビシリーズ ''Return of the Saint''(邦題「テンプラーの華麗な冒険」) が放送され、さらに1980年代にはオーストラリアサイモン・ダットン 主演のシリーズが制作された。これらによりセイントシリーズの寿命が延びた。1980年代には実現しなかったものの、アメリカでのテレビシリーズの話があってパイロット版だけが制作され放送された。
小説家として以外に、チャータリスはアメリカの雑誌に料理のコラムを書いていた。Paleneo という絵画的言語も考案し、それについても本を書いている。さらにメンサの初期メンバーの1人でもあった。
セイントシリーズは百冊近くの本になっていった。チャータリス自身は1963年の ''The Saint in the Sun'' を最後に直接執筆することを辞めた。翌年出版された ''Vendetta for the Saint'' はチャータリス作とされていたが、実際にはSF作家ハリイ・ハリスンが作者である。その後、上述の通りテレビシリーズからのノベライズが出版されたが、これらも作者は別にいる(ただし、1970年代のいくつかの作品はチャータリスとの合作である)。''Return of the Saint'' の脚本からもノベライズもある。チャータリスはこれら後期の作品については編集者として関わった。''The Saint Mystery Magazine'' という雑誌の編集も行った。セイントシリーズの最後の作品は1983年の ''Salvage for the Saint'' である。
1997年のヴァル・キルマー主演の映画『セイント』はセイントシリーズのキャラクター設定を使った作品で、そのノベライズが出版された。また同年、チャータリス自身が1930年代に創設したファンクラブ "The Saint Club" もオリジナルの小説を出版した。これらの作者はいずれも Burl Barer で、彼はチャータリスとセイントシリーズについての本も書いている。
チャータリスは1993年4月16日ウィンザーで亡くなった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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