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サー・レスリー・パトリック・アバークロンビー(Sir Leslie Patrick Abercrombie、1879年6月6日 - 1957年3月23日)は、イギリスの都市計画家、建築家。ロンドン・プランなどで有名であるが、これらの計画の中でもっとも批判を受けたロンドン首都圏外郭環状道路網案(大ロンドン計画)は、現在M25として完成し運用されている。また自身が就任していたリバプール大学に「アバークロンビー広場」がある。 == プロフィール == イギリス中部の小さな工業都市アシュトン・アポン・マージーに、マンチェスターで株式仲介などを営む実業家の9番目の子供として生まれる。 ラトランドのアッピンガムの寄宿学校で学んだあと、父の知り合いである、マンチェスターにある建築設計事務所で4年間建築家としての修行を積み、その後は古都チェスターの建築設計事務所に勤務し実務経験を積むが、1909年、創設間もないリバプール大学都市計画学科の研究員となり、都市研究の道へ進む。スタンレー・アドシェッド教授の下で、都市に関する世界有数の学術誌「タウンプランニング・レヴュー」を創刊号から編纂の手伝いと同時に、ウィリアム・ハスケート・レバー卿によって創設された海外研修制度で留学の機会をえて、ヨーロッパの主要都市を訪れる。 1914年、アイルランド・ダブリン首都計画コンペで、満場一致で一等に入選し、国際的な名声を得る。 1915年、アドシェット教授の後任として、リバプール大学都市計画学およびシビックデザインの教授に就任。1935年まで、20年にわたってつとめる。 1920年には、政府の要請によって炭鉱都市であるドンカスターの地域計画を作成し、1922年には正式決定する。その後プリマス、キングストン・アポン・ハル、バース、エディンバラ、およびボーンマスといったイギリス主要都市の都市再計画を立案していく。 1925年には、イギリス都市計画・地域計画学会 (CPRE) 会長をつとめる。 その間、レバー卿の意向もあって、特にイギリス海外の統治地、植民地、入植地の都市コンサルタント業務を積極的に引き受け、1930年には教え子の一人クリフォード・ホリディらとともに、ハイファ計画などを立案する。 1935年にロンドン大学に移籍し、1946年まで都市計画学教授に就任する。 1937年から1940年にかけて、大都市のあり方を調査報告するバーロウ(ジャックナイフ)委員会の委員長にロイヤル・コミッションから任命され、バーロウレポート作成に協力するとともに、政府の依頼を受け、人口300万人規模の都市計画、カウンティー・オブ・ロンドンプラン(1943年)と、一般にアーバークロンビー・プランと呼ばれるグレーターロンドン大都市圏計画(1944年)を提案する。後者は1943年の公表より拡張していて、徹底的な検討を加え、自身の意図や理想を取り込んだ実践的案であり、自身の都市計画分野50年間の経験と蓄積集大成でもあり、ロンドンの都市計画を語るとき現在でも、頻繁に引用を受けている。このプランで提案させているもののうち、ニュータウンはインナーシティ問題もひきおこし、ドックランド計画につながることになる。ほかグリーンベルトは、同時に立案した土地利用計画が厳格に守られているという。 1940年、スリランカ・セイロン大学キャンパスを設計を手がける。 第二次世界大戦後のロンドン復興計画は有名で、また1945年にエドウィン・ラッチェンス卿の支援で、キングストン・アポン・ハルの市とカウンティーでA Planに携わる。 1945年、ナイト爵を授かる。 1948年は、コロンボの都市再構成案を作成、その後英政府によって依頼されてマルタ、香港、キプロスなどで、短期の都市コンサルタントをつとめる。死の直前には、エチオピアに都市計画に関する提案を行い、こうして1956年に、アディスアベバの首都計画を作成するよう委託されるが、翌年死去する。 息子のニール・クロンビーはタスマニアで都市計画局長をつとめた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「パトリック・アバークロンビー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Patrick Abercrombie 」があります。 スポンサード リンク
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