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レゾリューション()は、18世紀のイギリスの小型帆船。ジェームズ・クック(第二回航海では、第三回航海では)の第二回と第三回航海の船。史上初めて南極圏への突入を果たした帆船である。 == 建造から第二回航海まで == クックの第一回航海でエンデバーがグレートバリアリーフで座礁し危うく沈没しかけた教訓の下に、イギリス海軍省は次回の探検航海では2隻の船を用意することを決定した。 レゾリューションは、もとは三檣帆船の石炭運搬船グランビー公爵として、ノースヨークシャー州ウィトビーで1770年に建造された。1771年海軍省は僚船とともに同船を購入し、スループ船ドレイクとして登録した。しかし、ドレイクという名がスペインを刺激することが危惧され、1771年12月25日レゾリューションと改名された。レゾリューションは全長33.7m、全幅11m、重量462トン、喫水13フィート(4m)、定員112名、僚船アドヴェンチャーは一回り小さく重量298トン、定員81名。 レゾリューションはテムズ川河畔のデットフォードで艤装を施され、当時最新鋭のコンパス、氷錨、浄水装置、海水淡水化装置、水の脱臭装置、そして12門の砲などを装備した。費用は4,151ポンドに上った。第二回航海には博物学者ジョゼフ・バンクスも同乗する予定であった。航海の重要な財政的パトロンでもあったバンクスは、召使い6人とホルン奏者2人を含む17人の自らの随行員を収容するためにレゾリューションの改造を申請した。船はいったん希望通りに改造されたが、増設された上部甲板のために安定を失い、海軍監査局は安全な航行が不可能と判断した。結局、レゾリューションは元の姿に戻されることになった。これに更に6,565ポンドが費やされた。バンクスは憤慨して航海から降りてしまった。バンクスの代わりに博物学者としてプロイセンのジョン・ラインホルド・フォスターが加わった。アドヴェンチャーの指揮官にはトバイアス・ファーノーが任命された。 海軍省がもっとも力を入れた装備品は、クロノメーターであった。クックは第一回航海では、太陰表を用いて複雑で手間のかかる計算で経度を決定したが、精密時計によって正確なグリニッジ標準時が分かれば、時差から経度は簡単に決定できる。海軍は精密時計のコンテストを開催してジョン・ハリソンが発明したクロノメーターを選び、天体観測のために天文学者ウィリアム・ウェルズを同乗させるとともに、ラーカム・ケンドールとジョン・アーノルドが作成した4台の複製品を積み込んだ。ラーカム・ケンドールのクロノメーターK1は、第二回航海できわめて正確に作動し、クロノメーターはイギリス海軍に正式に採用されるようになった。 改造をめぐる一連の騒動のせいで船の出来を心配する国王ジョージ3世に「ひとつの欠点も目につかぬほど立派な船だと申し上げた」とクックは、自筆原稿による航海日誌に記している。 1772年7月13日、レゾリューションはアドヴェンチャーを伴ってプリマス港から出帆した。1773年1月17日、レゾリューションは南極圏に初めて突入し、その後もさらに二度の突入を果たした。1773年2月3日の3度目の突入が最南で、南緯71度10分、西経106度54分に到達した。つまり、クックはもう少しで南極大陸に遭遇できるところであった。ここに至って、クックは王立協会のアレキサンダー・ダルリンプルが主唱した南方大陸が存在しないことを確認し、第二回航海の目的は達成された。1773年7月30日レゾリューションはイギリスに帰還した。第二回航海におけるレゾリューションの乗員の病死者はわずか1名だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レゾリューション (帆船)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 HMS Resolution (1771) 」があります。 スポンサード リンク
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