翻訳と辞書
Words near each other
・ レッジョ・カラーブリア県
・ レッジョ・ディ・カラブリア
・ レッジョ・ディ・カラブリア県
・ レッジョ・ディ・カラーブリア
・ レッジョ・ネッレミリア
・ レッジョ・ネッレミリア県
・ レッジョ・ネッレミーリア
・ レッジョ・ネレミリア
・ レッジョ・ネレミリア県
・ レッジョーロ
レッジョ公
・ レッジョ公国
・ レッジョ劇場
・ レッジ・カターモール
・ レッジーナ
・ レッジーナ・カルチョ
・ レッスル1
・ レッスル1グランプリ
・ レッスルアリーナ
・ レッスルエキスポ2006


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

レッジョ公 ( リダイレクト:フェラーラとモデナの君主一覧 ) : ウィキペディア日本語版
フェラーラとモデナの君主一覧[もでな]
フェラーラとモデナの君主一覧では、13世紀から19世紀イタリアにおけるフェラーラモデナおよびレッジョの君主を挙げる。
== 概史 ==
イタリアの有力貴族でランゴバルド人の血統のエステ家は、10世紀以来エステ辺境伯の地位を世襲し、1196年からはフェラーラ侯となった。1240年にフェラーラのシニョリーア(僭主制)を確立した。
1289年にはモデナレッジョを兼ねた。
1452年にはモデナとレッジョ、1471年にはフェラーラがそれぞれ侯爵領から公爵領に改められた。(1482年 - 1484年)。
1598年、フェラーラはローマ教皇に奪取され教皇領に編入され、以後はエステ家はモデナおよびレッジョ公国(モデナ公国)として存続した。
1796年、モデナ公国はナポレオン・ボナパルトに征服されチザルピーナ共和国に編入された。
1814年、モデナ公国はエステ家最後のモデナ公エルコレ3世の女系の孫でハプスブルク家フランチェスコ4世の下で再興され、1859年にサルデーニャ王国に併合されるまで続いた。このオーストリア=エステ家は最後の君主となったフランチェスコ5世で断絶し、名目上の公位とオーストリア=エステ大公の称号は遠縁の同族であるオーストリア帝位継承者フランツ・フェルディナント大公へ、さらにその甥で皇帝となるカール1世からその子、孫へと継承されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「フェラーラとモデナの君主一覧」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Duke of Ferrara and of Modena 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.