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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
レッツゴーターキンは日本の競走馬および種牡馬。1992年に単勝11番人気ながら天皇賞(秋)を勝った〔『優駿』1993年1月号、日本中央競馬会、136-137頁〕。祖母は優駿牝馬の勝ち馬であるシャダイターキン〔。主戦騎手は最初は小島貞博、途中から大崎昭一。 == 生涯 == 1987年4月26日、社台ファーム早来に生まれる。カラスの鳴き声を聞いただけで暴れまわる極度に憶病な性格の持ち主で、調教では前のめりになったり反り返るなどして騎乗する者を手こずらせた〔吉川2003、28-29頁。〕。栗東トレーニングセンターの橋口弘次郎厩舎に入厩してからも、騎乗する者が鞭を持ち替えただけで驚く素振りを見せて放馬するなどした〔吉川2003、34頁。〕。 1989年12月に競走馬としてデビュー。未勝利を脱出するのに4戦を要したが距離を伸ばす毎に好走していき、やがて500万下条件を抜け出すと初重賞挑戦となった中日スポーツ賞4歳ステークスでは単勝11番人気ながら2着に入り、波乱を演出する。その後は嵐山ステークスを始め好走する競走もあったが勝ち切れない競走が続く。 古馬になると初戦の小倉大賞典で重賞初勝利を挙げ続く中京記念も制し重賞を連勝する。しかしその後は不振に陥り7戦連続惨敗を喫してしまう。 騎手を大崎昭一に変え、心機一転した谷川岳ステークスでは単勝7番人気で制し実に13か月ぶりに勝利する。この後は引退まで大崎昭一が手綱を握ることになる。新潟大賞典では惨敗してしまうもののテレビ愛知賞では2着、1戦はさんだ後の北九州記念、小倉記念と連続で2着し、勝てないものの確実に復活の兆しを見せていた。続く福島民報杯でその年2勝目を挙げると陣営は天皇賞(秋)の参戦を決意する〔この時、騎手の大崎昭一が「天皇賞へ行こう」と陣営に助言した。〕。 迎えた天皇賞(秋)では前走を勝利したとはいえトウカイテイオーやナイスネイチャなどの一線級に比べると明らかに評価が劣っており、単勝11番人気に甘んじていた。が、いざレースがはじまるとダイタクヘリオス、メジロパーマーが作り出すハイペースの中、後方で待機をする。直線に向くとメジロパーマー、ダイタクヘリオスをトウカイテイオーが交わして先頭に立つが、そのトウカイテイオーも中団で脚を溜めていたナイスネイチャに差され、さらにまとめてその外からレッツゴーターキン、ムービースター、ヤマニングローバルが揃って差しきった。勝ち馬はレッツゴーターキン〔ちなみにこの勝利は橋口調教師のG1初勝利であり、大崎騎手にとっては最後のG1勝利であった。〕2着に単勝5番人気のムービースターが入り、馬連は実に1万7220円の大波乱、東京競馬場は騒然としていた〔。 G1勝ち馬となったレッツゴーターキンはその後ジャパンカップ、有馬記念と出走するがともに8着、4着と敗戦。翌1993年は阪神大賞典に出走するも、5着に終わる。レース中に故障していたことが判明し、目標の天皇賞・春を前に現役を引退、種牡馬入りした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レッツゴーターキン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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