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レネ・ゴーゲン(''Rene Goguen''、1983年12月15日 - )は、カナダのプロレスラー。ニューブランズウィック州シェディアック出身。レネ・デュプリ(''Rene Dupree'')のリングネームで知られる。 == 来歴 == 父はレスリング・プロモーターのエミル・デュプリ。その父の教えを受けて、1997年に14歳でデビュー。17歳の時にWWEにテープを送り自らを売り込むが、WCW買収の時期と重なり、多数の選手がWWEに移ったことで試験さえさせてもらえなかった。その後、プロレスをやる傍らボディビルディングも始め、地方の大会で優勝したこともある。 2002年WWEのトライアウト・キャンプに参加し、ディベロップメント契約を結ぶ。下部団体OVWでは、ランス・ケイドとのコンビでタッグ王座にも輝いた。2003年4月、WWEに昇格しRAWにてレネ・デュプリ(''Rene Dupree'')のリングネームで初登場。シルヴァン・グラニエと反米思想家チーム、ラ・レジスタンスを結成。フランス語で挨拶をし、英語でアメリカ批判を行い、大ヒールとして活躍。2003年に行われたPPV、バッド・ブラッド2003で初の世界タッグ王座を獲得した。なお、19歳での戴冠はWWE最年少であった。その後、レジスタンスのメンバーにロブ・コンウェイが加入し、3人で活動することになるが、2004年3月に行われたドラフトで、SmackDown!に移籍することになる。 SmackDown!移籍当初はジョン・シナとUS王座を巡って抗争開始。シングルプレーヤーとして活躍した。なお、この頃入場ではフィフィというプードル犬を連れて登場する。同年8月頃、鈴木健想とタッグを組み、再びタッグプレイヤーに転向。9月にはWWEタッグ王座を獲得した。こちらのタッグ王座も、最年少20歳で獲得となった(スピリット・スクワッドのケニーとタイ)。王座陥落後、再びシングルプレーヤーに転向。イラク興行では、堂々とフランス国旗を振り回して入場し、現地の軍人からはものすごいブーイングを浴びた。2005年のドラフトで再びRAWに移籍。同年9月、ヘルニアにかかって一時離脱。DSWでトレーニングを積み、2006年、第3のブランドとなったECWに移籍した。2007年2月に、かつてのパートナーシルヴァン・グラニエと再びレジスタンスを結成したが、自らの薬物使用によって台無しとなり、2007年7月26日にWWEから契約を解除された。 2007年8月15日、ハッスルに出場。高田総統から"地獄のナポレオン"レネ・ボナパルト(''René Bonaparte'')と改名。後楽園ホールでタジリと対戦し日本マットデビュー戦を飾った。その後は日本人女性と結婚し、日本を主戦場に活躍している。高田総統の離脱を期に本名に戻り一時ベビーターンするが、ハッスルの瓦解で主戦場を全日本プロレスに移し、ヒールユニットのVOODOO-MURDERSにメンバー入り。髪を切りキャラクターも一新した。その後も全日本に継続参戦。 2010年、チャンピオンカーニバルに初出場し、太陽ケアから金星を奪った。VOODOO-MURDERSの主力外人として活躍を続け、ついに8月29日の両国大会でOVW時代のパートナーであるランス・ケイドと組み、太陽ケア・曙組の持つ世界タッグ王座への挑戦が決定したが、ケイドの急逝により中止となってしまった。8月15日の後楽園ホールで行われたランス・ケイド追悼式では、ケイドの遺影を持ち参列、涙を流した。ケイド逝去後、全日本に参戦することになったKENSOことWWE時代、タッグを組んだ経験のある鈴木健想とタッグを再結成し、9月20日にケア・曙組が持つ世界タッグ王座に挑戦するが敗れた。11月にはAWR(American Wrestling Rampage)のフランス大会に参戦。シルヴァン・グラニエとレジスタンスを再結成し、またAWRヘビー級王座を奪取する活躍を見せた。 2011年6月、不祥事によりVOODOO-MURDERSが解散という事態に陥り、シングルで活動するが後にヘルニアを再発し、療養のために欠場。2012年よりアメリカとイングランドのインディー団体で活動するようになり、SWE(Southside Wrestling Entertainment )やPCW(Preston City Wrestling)、PWS(Pro Wrestling Syndicate)に参戦している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レネ・ゴーゲン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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