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レビラト婚(レビラトこん)は、寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する習慣。レビラトは、ラテン語で夫の兄弟を意味するレウィル(levir)に由来する。レビレート婚とも。死亡した妻の代わりにその姉妹が夫と結婚する習慣のことはソロレート婚という。 レビラト婚の目的は、最初の婚姻で結ばれた両親族集団の紐帯を維持し続けようとすることにある。ユダヤ、パンジャブ、モンゴル族、匈奴、チベット民族などで一般的。兄弟が寡婦の権利・義務を受け継ぐ場合も含めると、世界中に広く見られる。 日本では逆縁婚、もらい婚と言う。かつては武家の間でも見られたが、儒教の価値観が浸透した江戸時代中期以降は、武家社会の人々の間ではひどく嫌われるようになっていった。しかし、一般的な庶民の間では受け入れられていた慣習であった。武家社会への配慮から逆縁婚は明治8年12月8日の太政官指令で禁止されたが、その後成立した民法に逆縁婚の禁止規定は盛り込まれなかった。 近代の日本では、第二次世界大戦後、夫が出征して戦死、あるいは行方不明となり妻が戦争未亡人となった場合、夫の兄弟と再婚するという事例も散見された。これは夫が将校でない場合は遺族年金が支給されないために妻が経済的に困窮するのを防ぐ一面もあった。 == 歴史上の人物の例 == *古代ギリシア、ロドスのメントルの妻バルシネは、メントルの死後、メントルの弟メムノンの妻になった。 *イングランド王ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンは、ヘンリーの兄アーサーと死別後にヘンリーと再婚した。この結婚は本来カトリックの教会法に反するものであり、それを理由とすることで離婚(婚姻の無効)も可能となるはずだったが、政治上の理由から時の教皇がそれを認めず、イングランド国教会の成立のきっかけとなった。 *ポーランド王ヴワディスワフ4世の2番目の王妃ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガは、ヴワディスワフの死後にその異母弟ヤン2世が王位を継承するに際し、ヤンと再婚して2代の王の妃となった。 *金の太祖阿骨打の次男繩果の妃蒲察氏は、繩果の死後にその異母兄斡本と再婚した。斡本は繩果と蒲察氏の子である熙宗の養父となり、その即位に貢献した。 *清の世祖順治帝の生母孝荘文皇后は、太宗ホンタイジの側室の一人であったが、太宗の死後に世祖の摂政となった太宗の異母弟ドルゴンと再婚したという説がある。レビラト婚は満州族の古来の風習では普通に行われていたが、儒教では不義にあたるとされ、実際にこの結婚が行われたか否かについては議論が分かれている。 *日本の武家では、戦国時代から江戸時代初期にかけて以下の例がある。 *古河公方足利義氏の娘(足利氏姫)は、豊臣秀吉の意向で小弓公方足利頼純の嫡男足利国朝と結婚した。名族である関東公方系足利家の分裂解消と再興を意図したものであったが、国朝が早世したため、足利氏姫はその弟足利頼氏と再婚した。頼氏は喜連川藩の初代藩主となり、足利氏姫との間の嫡孫尊信が跡を継いだ。 *徳川家康の異父妹多劫姫は、最初の夫松平忠正の死後にその弟忠吉と再婚した(その後さらに保科正直と再婚しており、3人の夫それぞれとの間に子供がいる)。 *初代薩摩藩主島津忠恒の正室亀寿は、忠恒の兄島津久保の死後に忠恒と再婚した。 *小笠原家初代小倉藩主小笠原忠真の正室亀姫は、忠真の兄小笠原忠脩の死後に忠真と再婚した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レビラト婚」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Levirate marriage 」があります。 スポンサード リンク
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