翻訳と辞書
Words near each other
・ レベッカのお買いもの日記
・ レベッカマイシン
・ レベッカ・A・L・フェルトン
・ レベッカ・L・フェルトン
・ レベッカ・アドリントン
・ レベッカ・アン・ラティマー・フェルトン
・ レベッカ・アン・ラモス
・ レベッカ・ウィンターズ
・ レベッカ・エマニュエルソン
・ レベッカ・キム
レベッカ・クラーク
・ レベッカ・ゲイハート
・ レベッカ・シェイファー
・ レベッカ・シェーファー
・ レベッカ・シャール
・ レベッカ・ジェイムス
・ レベッカ・ジェームス
・ レベッカ・ズロトヴスキ
・ レベッカ・セント・ジェームス
・ レベッカ・ソニ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

レベッカ・クラーク : ミニ英和和英辞書
レベッカ・クラーク[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

レベッカ・クラーク : ウィキペディア日本語版
レベッカ・クラーク[ちょうおん]

レベッカ・クラークRebecca Helferich Clarke , 1886年8月27日 - 1979年10月13日)は、イギリスヴィオラ奏者。作曲家としては、ヴィオラを主役にした室内楽を手懸けた。第一次世界大戦第二次世界大戦のはざまの戦間期に活躍したイギリスの作曲家のうちで、最も重要な一人に数えられている〔Liane Curtis, "Rebecca Clarke". Grove Music Online (subscription access) .〕。また、同世代の女性作曲家に、彼女ほど個性的な作品を生み出した人物は他にいない〔Stephen Banfield, "Clarke, Rebecca (Thacher)", ''The Norton/Grove Dictionary of Women Composers'', W.W. Norton and Co., 1995.〕とも評されてきた。
クラークは、女性作曲家についてのジェンダー認識のせいで、少ししか作曲しなかったが、それでもなお彼女の作品は、作曲技術ゆえに認められていた。クラーク作品は、今なお大半が出版待ちの状態であり、後半生に作曲を止めてからほとんどが忘れられていた。1970年代後半に彼女の作品に対する研究や関心が蘇った時、作曲者はすでに90歳という高齢に達していた〔Liane Curtis, "When Virginia Woolf met Rebecca Clarke". Newsletter of the Rebecca Clarke society, Fall 2003.〕。
== 生涯 ==

===前半生===
イングランドハーロウに生まれる。父ジョゼフ・サチャー・クラークはアメリカ合衆国出身の商人で、母アグネス・パウリーナ・マリーエ・アマーリエ・ヘルフェリヒはバイエルン出身のドイツ人であった。いきおい英語ドイツ語の二言語使用の環境に育つ。家族や友人からはベックル(Beccle)の愛称で親しまれた。
クラークの生涯と音楽活動の道のりは、性別に強く影響されている。音楽の学習を王立音楽アカデミーで始めるが、ヴァイオリン教師のパーシー・ヒルダー・マイルズに言い寄られてからは、父親によって退学させられてしまう。その後は王立音楽大学に進学し、スタンフォードに認められて作曲科の最初の女子学生の一人となる(クラーク自身が、自分が最初であると言っているのは、記憶違いである)〔Liane Curtis, personal correspondence, May 2005.〕。スタンフォードに説き伏せられて、楽器をヴァイオリンからヴィオラに乗り換え、往年の名ヴィオラ奏者ライオネル・ターティスに師事〔Michael Ponder, "Clarke, Rebecca Helferich (1886-1979)", ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, 2004 (subscription access) .〕。その後クイーンズ・ホール管弦楽団の楽団員に迎えられ、女性で最初のオーケストラでの演奏者の一人となった〔Liane Curtis, "A Case of Identity". ''Musical Times'', May 1996.〕。
口やかましい父親に不倫の恋が知られるところとなり〔Michael Ponder, liner notes to album ''Rebecca Clarke: Midsummer Moon'', 2000 Dutton Laboratories.〕、後ろ盾のないままに家から叩き出されたクラークは、ヴィオラ奏者として身を立てるようになり、1916年に演奏旅行でアメリカ合衆国に渡った。彼女の創作活動が一挙に開花し、1919年には、自他ともに認める現代芸術の庇護者エリザベス・クーリッジ夫人が後援する作曲コンクールに、《ヴィオラ・ソナタ》を提出した。72点の応募作のうち、エルネスト・ブロッホと最優秀賞を分かち合った。しかしクーリッジ夫人は、ブロッホを覇者とした。
これには裏話が続いている。レベッカ・クラークは偽りの男性名義で作品を提出しており、真の作者が女性であるということは、審査団には当初知らされていなかった。また当時、クラークはクーリッジ夫人の近所に住んでいた。後で事情を知った審査団のうち2人から、このような感想がもれたという。「自分たちはクラーク嬢の作品こそ好ましいと思っていましたが、夫人がブロッホを勝たせたのは正解でした。夫人が近所の友人を勝たせたとなったら、できたばかりのコンクールの評判を落としかねませんでしたからね。」
さらにこのような裏話が続いた。「レベッカ・クラーク」という名義は、実はブロッホの偽名に違いない、少なくともクラーク自身にこのような作品が書けるわけないと、想像を逞しくする向きもあったという〔。このように、女性にも芸術作品が書けるはずだとする考え方は、当時はほとんど聞かれなかったのである。
クラークの《ヴィオラ・ソナタ》は好評をもって迎えられ、1919年のバークシャー音楽祭において初演を見た。1921年には、今度は賞を逃しはしたものの、《ピアノ三重奏曲》によって再び圧倒的な印象を残した。次の作品は、1923年の《チェロとピアノのための狂詩曲》で、これによって唯一の(エリザベス・クーリッジ賞の)女性受賞者に輝いた〔。この3作が、クラークの作曲活動の頂点を築いている。これ以降は作曲活動は散発的になり、1930年代にはめったに作曲しなかった。またその頃は、演奏活動を続けていたにもかかわらず、たとえばベビーシッターなどの仕事にも就いていたため、作曲していられなかったのである。
1939年から1942年にかけての年代は、彼女の創作力を試す最後のチャンスとなった。この頃までにクラークはアメリカ合衆国で実弟と暮らしており、弟たちが彼女の目に、父親のように意地悪くなったように見えたのは、辛いことだった。不幸だったその頃は、しかしながら実り豊かな時期になるやに思われたが、長続きはしなかった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レベッカ・クラーク」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.