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ミシェル・レリス(Michel Leiris、1901年4月20日 - 1990年9月30日)はフランスの詩人・民族学者。 == 略歴 == 詩人マックス・ジャコブに師事したのち、画家アンドレ・マッソンらと1924年にシュルレアリスム運動参加。『シュルレアリスム革命』誌に最初期の重要作である「語彙集、わたしはそこにわたしの註釈をつめこむ」等のテクストを発表。既成の単語の一般的意味を解体し、音の類似や観念連合に基づく私的かつフェティッシュなファンタスムによって語を再構成していく「語彙集」に見られる言語への特異な拘泥は生涯一貫して続く。それゆえにレリスには翻訳が困難なテクストが多い。 1926年、ルイーズ・ゴドンと結婚。反植民地主義を標榜していたシュルレアリスムとレヴィ・ブリュルの著作から民族学への関心が開かれる。 1929年、シュルレアリスム運動を離脱したのち、友人のジョルジュ・バタイユが編集主幹を務めた『ドキュマン』誌立ち上げに参加し、いくつかの重要なテクストを発表。 1931年から1933年にかけてダカール=ジブチ、アフリカ横断調査団に秘書兼文書係として参加し、その折の日誌を1934年に『幻のアフリカ』として公刊。特に第二部の大部分を占めるアビシニア(エチオピア)における憑依現象をめぐる記述は圧巻。フィールドにおける観察者の偏差を曝すために私的な迷妄に満ちた記述を織り交ぜたこの日誌は、ポスト・コロニアリズムの文脈で高く評価されることになる。 フランスに帰国後、トロカデロ民族誌学博物館(現人類博物館)の黒人アフリカ部門に勤務。民族学における専門は憑依現象、秘密言語、アフリカ美術。バタイユとロジェ・カイヨワの主宰した社会学研究会に参加を請われ、1938年に「日常生活のなかの聖なるもの」という題で講演を行うも離脱。バタイユの秘密結社アセファルにも参加せず、この後バタイユとの亀裂を一時深める。 1930年代前半に書かれた『成熟の年齢』は娼婦ユディットと貞淑なルクレティアという相反する女性のイメージをめぐって書かれたエロティックな断章形式の自伝的作品であるが、再版時から付された「闘牛として考察された文学」はレリス文学を知るうえで特に重要。1938年の『闘牛鑑』は小品ながら極めて詩的なエクリチュールで織られたエロスと死をめぐる闘牛論であり、闘牛という啓示的スペクタクルもレリス文学を貫く大きな軸のひとつである。 戦後はジャン・ポール・サルトルらとともに『レ・タン・モデルヌ』誌立ち上げに参加し、マルティニックの詩人エメ・セゼールとも親交を結びながら反植民地主義の立場を鮮明にする。 1948年から1976年にわたって4冊刊行された『ゲームの規則』がレリスの代表作であり、単なる自伝文学という領域にとどまらない稠密かつ反小説的な語りをもったエクリチュールが展開される。b、f、i、rの文字がすべてのタイトルに入っていることに注目されたい。1981年の『オランピアの頚のリボン』と遺作となった1988年の『角笛と叫び』も基本的には『ゲームの規則』の延長線上にある。また、『夜なき夜、昼なき昼』に代表される夢の記述という系譜もシュルレアリスト時代からの一貫してのテーマであったが、レリスにおいて夢の記述は詩に還元されず厳密な記述が試みられていることが多い。 美術の領域でも、マッソンのほか、ピカソ、アルベルト・ジャコメッティ、フランシス・ベーコン、ウィフレッド・ラムらと親交を結びつつ、愛する作家だけを論じるという特異な美術批評を残した。 日本でも翻訳が刊行された日記は、自己のエクリチュールを展開し続けたレリスにおいて重要な位置を占めるだけでなく、読み物としても面白い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ミシェル・レリス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Michel Leiris 」があります。 スポンサード リンク
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