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バッド・バッド・レロイ・ブラウン("Bad, Bad" Leroy Brown、本名:Roland C. Daniels、1950年11月30日 - 1988年9月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。ジョージア州サバンナ出身のアフリカ系アメリカ人。 より原音に近い表記は「リロイ・ブラウン」だが、本項では来日時の呼称や日本のプロレス・マスコミにおける汎用的な表記を使用する。 == 来歴 == NFLのニューヨーク・ジェッツを経て、1977年にプロレスラーとしてデビュー〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P39(2002年、日本スポーツ出版社)〕。日本でも人気の高いシンガーソングライター、ジム・クロウチのヒット曲"Bad, Bad Leroy Brown"(邦題『リロイ・ブラウンは悪い奴』)をそのままリングネームに、超大型の黒人ヒールとして売り出される。 デビュー当時はフリッツ・フォン・エリックが牛耳るテキサスのダラス地区を主戦場に、1978年3月31日にキラー・ブルックスと組んでホセ・ロザリオ&アル・マドリルからNWAテキサス・タッグ王座を奪取。ダラスではブルーザー・ブロディともスーパーヘビー級同士の肉弾戦を展開した。その後は西海岸のロサンゼルス地区に転出し、1979年4月26日にチャボ・ゲレロを破ってNWAアメリカス・ヘビー級王座を獲得している。 同年6月、LA地区と提携関係にあった新日本プロレスにクレイジー・レロイ・ブラウン(''"Crazy" Leroy Brown'')の名義で初来日。アブドーラ・ザ・ブッチャー2世として注目され、来日第1戦ではストロング小林に勝利。アントニオ猪木とのシングルマッチも組まれ、7月17日には釧路にて、坂口征二が保持していた北米ヘビー級王座にも挑戦した〔。試合ではキャリア不足と不器用さを露呈したが、プレイング・マネージャー役のマサ斎藤にビール瓶で頭を殴らせるデモンストレーションは話題を集めた。 帰国後の1979年11月より、エディ・グラハムが主宰していたフロリダ地区に参戦し、サー・オリバー・フンパーディンク率いるヒール軍団 "ハウス・オブ・フンパーディンク" に加入してバグジー・マグローやニコライ・ボルコフと共闘。11月24日にはスウィート・ブラウン・シュガーからNWA南部ヘビー級王座を奪取、以降も同王座を巡ってダスティ・ローデスやマニー・フェルナンデスと抗争を繰り広げた。1980年はビル・ワット主宰のミッドサウス地区でアーニー・ラッドと大型黒人タッグを結成、同じくジム・クロウチの "Bad, Bad Leroy Brown" の歌詞からリングネームを取ったジャンクヤード・ドッグとの黒人抗争も行われた。 1981年下期より、ジム・バーネット主宰のジョージア地区でベビーフェイスに転向。オーバーオール姿の陽気なキャラクターとなって子供達の人気を集め、マスクド・スーパースター、スーパー・デストロイヤー、ビッグ・ジョン・スタッドらを相手に巨漢同士の大型対決を展開。リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦した。1982年2月28日にはアトランタのオムニ・コロシアムで行われたNWA世界タッグ王座の争奪トーナメントにロン・フラーと組んで出場したが、海外遠征中だったジャンボ鶴田&天龍源一郎に2回戦で敗退している。同年下期からはヒールに戻り、ジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック地区に登場。サージェント・スローター、ボブ・オートン・ジュニア、マイク・ロトンドらが参加したバトルロイヤルに優勝してTV王座を獲得した。 1983年6月、フロリダ地区でイライジャ・アキーム(''Elijah Akeem'')と改名し、カリーム・モハメッドことレイ・キャンディとザンブイ・エクスプレス(''The Zambuie Express'')を結成。ムスリム・コネクション(''The Muslim Connection'')の別名もあり、迷彩服を着用したイスラム系アフリカ兵ギミックの重量級黒人タッグチームとして、ブラックジャック・マリガン&バリー・ウインダムの親子コンビなどと抗争した。ジェリー・ローラーとジェリー・ジャレットが主宰するメンフィスのCWAにも参戦し、ココ・B・ウェア&ノーベル・オースチンのプリティ・ヤング・シングスとAWA南部タッグ王座を巡る黒人タッグ抗争を展開。サンアントニオのテキサス・オールスター・レスリングではカマラとも共闘、スーパーヘビー級のアフリカ軍団で猛威を振るった。 1984年3月には「ザンビア・エクスプレス」のチーム名で新日本プロレスに再来日(リングネームは「エリジャー・アキーム」などと表記された)。キャンディとのチーム解散後はリングネームをレロイ・ブラウンに戻し、1985年3月にはLAでアメリカス・タッグ王座を獲得したときの相棒バッドニュース・アレンとのコンビで新日本に3度目の来日を果たしている。その後はミッドサウス地区のUWFに登場し、1986年11月9日にビル・アーウィンと組んでUWF世界タッグ王座を獲得した。 WWF入りも噂されたが実現せず、1988年9月6日、狭心症による心臓発作のため37歳で死去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レロイ・ブラウン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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