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レンジェル・メニュヘールト : ミニ英和和英辞書
レンジェル・メニュヘールト[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

レンジェル・メニュヘールト ( リダイレクト:レンジェル・メニヘールト ) : ウィキペディア日本語版
レンジェル・メニヘールト[ちょうおん]
レンジェル・メニヘールトLengyel Menyhért1880年1月12日 - 1974年10月21日)は、ハンガリー劇作家脚本家ハンガリー以外ではメルヒオル・レンジェルMelchior Lengyel)の名で知られる。
== 生涯 ==
レボヴィチ・メニヘールトLebovics Menyhért)の名でハンガリー王国ハイドゥー=ビハル県のホルトバージ近郊バルマズウーイヴァーロシュに生まれたユダヤ人ハンガリー新聞の特派員としてスイスに滞在した後、ドイツオーストリア戯曲を発表。エルンスト・ルビッチなどドイツ演劇界の大立者たちと交友を持つ。
1917年1月、「中国の不思議な役人─グロテスクなパントマイム」(A csodálatos mandarin: Pantomime grotesque)と題する脚本を文芸誌に発表。この作品は、1924年バルトーク・ベーラによって舞台音楽化された。
この間、1921年1924年、二度にわたってアメリカに滞在。この時期の彼の日記は、当時のアメリカの演劇界に関する好個の資料となっている。彼はまたユージン・オニールと会い、ドイツに戻ってからオニールの戯曲を演出した。
1933年ブダペストのPesti Napló紙の特派員として渡英。ナチ台頭後、1935年にはルビッチの後を追ってアメリカ亡命ハリウッド映画『ニノチカ』(1939年)や『生きるべきか死ぬべきか』(1942年)の脚本などを執筆し、前者の作品ではアカデミー賞候補となったが、『風と共に去りぬ』の前に惜敗した。
戦後、1960年イタリアへ移住。1970年ハンガリーへ帰国し、94歳のときブダペストで逝去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レンジェル・メニヘールト」の詳細全文を読む




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