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レンツォ・パゾリーニ(''Renzo Pasolini'', 1938年7月18日 - 1973年5月20日)はイタリア出身のオートバイレーサー。1960年代にイタリアで最も人気のあったライダーの一人である。 展開を予測できない派手なレーススタイルが特徴で、それが災いしてワールドチャンピオンになることはできなかったものの多くのファンを惹きつけ、同時代のイタリア人ライダーでライバルでもあったジャコモ・アゴスチーニと人気を二分した。 == 経歴 == パゾリーニはイタリアのリミニで、オートバイ好きの両親のもとに生れた。一時期ボクシングにのめりこんだが、1958年にモトクロスを始めた〔The Biography - Renzo Pasolini Official Website 2010年4月18日閲覧〕。 パゾリーニはスポーツ選手としては珍しいことにヘビースモーカーであった上に手のつけられない遊び好きとしても知られ、あらゆるパーティーに顔を出していた。その一方でひとたびオートバイに乗ると、ほとんど転倒しているのではないかと思わせるような危ういバランスと信じられないスピードのコーナーリングを見せた。 モトクロスでまずまずの成功をおさめたパゾリーニは、体力を維持するために他のスポーツを行いながら、ロードレースに照準を合わせた。1962年、175ccのアエルマッキでロードレースにデビューすると、この後長きに渡ってライバルとなるジャコモ・アゴスチーニを抑えて2勝を挙げた。 この後、2年間の兵役のためにレース活動を休止したパゾリーニは、配置先のサルデーニャで将来の妻となるアンナと出会った。後にアンナとの間には二人の息子をもうけることになる。 1964年、兵役を終えてレース活動を再開すると同時に250ccクラスと350ccクラスにステップアップした。1965年にはイタリア選手権でベネリのマシンを駆り、250ccクラスではタルクィニオ・プロヴィーニに次いでランキング2位、350ccクラスではアゴスチーニとジュゼッペ・マンドリーニに次ぐランキング3位を得た。 1966年のイタリア選手権最終戦、パゾリーニはベネリの新型4気筒500ccで勝利を飾った。マイク・ヘイルウッドのホンダやアゴスチーニのMVアグスタと渡り合えるだけの競争力のあるニューマシンを得たパゾリーニは彼らの手強いライバルとなり、1968年には250と350のイタリア選手権を獲得、さらに同年の世界選手権350ccクラスではアゴスチーニに次ぐランキング2位となった。 しかし、にベネリのチームメイトであるケル・キャラザースに250ccタイトルを奪われた頃から歯車が狂い始める。 レギュレーション変更によってからはロードレース世界選手権の250ccクラスは2気筒以下に制限されることになり、ベネリは350ccクラスに集中することを決定した。1970年はベネリで350ccクラスを走ったパゾリーニだったが、アゴスチーニとキャラザースに次ぐランキング3位に終わると、シーズンオフにハーレー・ダビッドソンに吸収されたばかりのアエルマッキに移籍した〔Renzo Pasolini - The official Isle of Man TT website 2010年4月18日閲覧〕。 しかしアエルマッキ/ハーレー・ダビッドソンの250ccのマシンの開発に予想以上に手間取り、テストに専念するためにシーズンを棒に振ることになった。それでもマシンは十分な戦闘力を得るまでには至らず、一方でパゾリーニがレースを休んでいる間にヤーノ・サーリネンをはじめとする強力なライバルが台頭していた。にはそのサーリネンにわずか1ポイント差で250ccクラスのタイトルを譲ることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レンツォ・パゾリーニ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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