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レン・ハルキ・サカタ(Lenn Haruki Sakata、日本名:坂田 春樹〈さかた はるき〉、1953年6月8日 - )は、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルル出身のプロ野球選手(内野手)、指導者、監督。日系アメリカ人三世〔日本をルーツに持つメジャーリーガーたち 〕。 == 来歴・人物 == ホノルルで野球を始め、1970年にはカラニ高校でハワイ州選手権に優勝。この時のチームメイトに投手のライアン・クロサキがいた。 、ドラフト14巡目(全体331位)でサンフランシスコ・ジャイアンツに指名されるも拒否。 、ドラフト5巡目(全体97位)でサンディエゴ・パドレスに指名されるも拒否。 、ワシントン州のゴンザガ大学時代にドラフト1巡目(全体10位)でミルウォーキー・ブルワーズに指名され入団し、7月21日のミルウォーキー・ブルワーズ戦でクロサキに続く日系人として2人目のメジャーデビューを果たす。 12月6日にジョン・フリンとのトレードでボルチモア・オリオールズに移籍。内野のユーティリティプレイヤーとして活躍。1983年のワールドシリーズ優勝メンバーとしてに来日している。11月12日にFAとなった。 2月1日、オークランド・アスレチックスと契約。11月12日、FAとなった。12月17日、ニューヨーク・ヤンキースと契約。 11月2日に放出され、日本の南海ホークスが獲得に乗り出し契約寸前にまで至るものの、長打力の無さに杉浦忠監督が難色を示したとされ、日本球界入りは幻となった。結局同年限りで現役を退き、コーチとしてのキャリアをスタート。オークランド・アスレチックスやサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下のマイナーリーグで指揮を執る。 、当時千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャーだった広岡達朗に請われ、ロッテの二軍監督に就任し、一軍監督となったボビー・バレンタインを補佐した。バレンタインと広岡が意見対立を起こし、双方が退団した後もサカタはロッテに留まり、まで二軍内外野守備走塁コーチなどを歴任。当時ロッテの選手で指導を受けた小坂誠は「私にとって大きな影響を与えて下さった方です。守備の基本的な考え方、脚の使い方、身体の使い方など手取り足取り教えて頂きました」と述べている〔第284回 小坂 誠 ファーム内野守備コーチ(北海道日本ハムファイターズ) 【前編】「名手・小坂を生み出したバックグラウンド」2015年03月28日 〕。 、サンフランシスコ・ジャイアンツ傘下A+級サンノゼ・ジャイアンツの監督に就任。 、ジャイアンツ傘下A級ベーカーズフィールド・ブレイズの監督に就任。 、A+級サンノゼの監督に復帰。優勝を果たす〔南地区・レイク・エルノシア・ストームとの2チーム優勝。9月11日にアメリカ同時多発テロ事件が発生したため、チャンピオンシップ・シリーズは中止となった。〕 、ジャイアンツ傘下AAA級フレズノ・グリズリーズの監督に就任。全体14位と低迷し、この年限りで解雇された。 、サンノゼの監督に復帰。まで監督を務め、通算705勝を記録した〔baseball-reference.com マイナー監督成績 〕。 、バレンタインが指揮するロッテの二軍監督に復帰しまで務めた。 にコロラド・ロッキーズ傘下A級アッシュビル・ツーリスツの打撃コーチに就任〔ベースボールマガジン、2011年9月号 P85〕。 にロッキーズ傘下A+級モデスト・ナッツの監督に就任。カリフォルニアリーグの北地区優勝を果たした。 7月、ナッツは前期4位と低迷し、監督を解任された〔Lenn Sakata Replaced as Nuts Manager MiLB.com〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レン・サカタ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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