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レ・ドゥク・ト : ミニ英和和英辞書
レ・ドゥク・ト
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


レ・ドゥク・ト : ウィキペディア日本語版
レ・ドゥク・ト

レ・ドゥク・ト(, 漢字: 黎德壽、1911年10月14日 - 1990年10月13日)とは、ベトナム革命家政治家。日本のマスメディアではレ・ドク・トまたはレ・ドクトと表記されることが多かった。本名はファン・ディン・カイ(、潘廷凱)。
== 経歴 ==
フランス統治時代の1911年、北部ナムディン省に生まれた。
1929年、「インドシナ共産党」(1930年に成立したインドシナ共産党の前身)に入党。仏領インドシナ当局に1930年から1936年までと、1939年から1944年までの2回投獄された。釈放後、北部で活動。
1945年、インドシナ共産党中央委員に選出。第一次インドシナ戦争中は、レ・ズアンの元で南部中央局副書記を務めた。
ジュネーヴ協定後の1954年、北部に戻る。1955年8月、ベトナム労働党第2期中央委員会第8回総会において党政治局員に選出され、土地改革の後仕末と党の整風運動の責任者となった〔木村(2006年)、119ページ〕。
1956年末、党人事を扱う党中央組織委員会委員長に就任。人事権を掌握し、イデオロギー部門に睨みをきかせるレ・ドク・トの存在はレ・ズアンの第一書記への道を開いたとも言われる〔木村(2006年)、119ページ〕。
1960年の第3回党大会において政治局員に再選出され、党内序列第7位に昇格〔第3期党中央執行委員会(1960-1971年) 〕。1968年、再び南部に派遣され、南部中央局副書記。直後から後述のパリ和平協定交渉に取り組む。
1986年、第6回党大会で引退し、党中央委員会顧問に就任、死去まで務めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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