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レーン・ゴルト : ミニ英和和英辞書
レーン・ゴルト[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

レーン・ゴルト ( リダイレクト:レネ・グレイ ) : ウィキペディア日本語版
レネ・グレイ[ちょうおん]

レネ・グレイRene Goulet、本名:Robert Bédard1932年7月12日 - )は、カナダケベック州ケベック・シティー出身、フランス系カナダ人の元プロレスラー
第2代WWWF世界タッグ王者(パートナーはカール・ゴッチ)。現役引退後はWWFのロード・エージェントとなり、試合のストーリー構成や選手の管理業務などバックステージで手腕を振るった。
== 来歴 ==
アマチュア時代はアイスホッケーディフェンス選手であり、NHL入りを目指すが練習中の事故で断念、1956年に地元のケベックにてプロレスラーとしてデビュー。モーリス・バションらと対戦してキャリアを積み、1960年代前半よりレネ・グレイ(''Rene Goulet'')のリングネームでアメリカAWAに参戦。金髪をなびかせたフランス出身の伊達男系ベビーフェイスとして活動し、同じフランス系のバーン・ガニアともタッグを組んだ。
以降、太平洋岸北西部のパシフィック・ノースウエスト・レスリングや南部フロリダ地区などNWA圏を転戦。フロリダでは1970年12月7日にグレート・メフィストからNWA南部ヘビー級王座を奪取、翌1971年1月から2月にかけてはヒロ・マツダを相手に同王座を争った。同年9月よりWWWFに登場、12月6日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてカール・ゴッチと組み、ターザン・タイラー&ルーク・グラハムを破り第2代のWWWF世界タッグ王者となった〔。
1972年6月、国際プロレスに初来日(名義は "Rene Goulet" の英語読みであるレーン・ゴルト)。ビル・ミラーバロン・シクルナに次ぐ3番手外国人のポジションでストロング小林グレート草津と対戦し、ラッシャー木村との金網デスマッチも行われた。1974年5月の再来日ではセーラー・ホワイトと組み、ビル・ロビンソン&マイティ井上と金網タッグデスマッチで対戦している〔『Gスピリッツ Vol.32』P56(2014年、辰巳出版、ISBN 4777813304)〕。
アメリカではこの時期よりサージェント・ジャック・グレイ(''Sgt. Jacques Goulet'')を名乗ってヒールに転向し、インディアナポリスWWAにてドン・ファーゴとザ・リージョネアーズ(''The Legionnaires'')なるフランス外人部隊ギミックタッグチームを結成。1974年9月21日にはウイルバー・スナイダー&ペッパー・ゴメスからWWA世界タッグ王座を奪取し、1975年4月からはザリノフ・ルブーフを新パートナーにディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの極道コンビと抗争した。
ジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナミッドアトランティック地区ではミシェル・デュボアともフランス系の悪党タッグチームを組み、1976年11月3日に行われたNWAミッドアトランティック・タッグ王座決定トーナメントでは、ティム・ウッズ&ディノ・ブラボーのチームと決勝を争った。1977年にはジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに進出し、12月13日にオレイ・アンダーソンと組んでトニー・アトラス&トミー・リッチからNWAジョージア・タッグ王座を奪取している。
1979年よりWWFに復帰し、1980年11月にはWWFとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P53(2002年、日本スポーツ出版社)〕。第1回MSGタッグリーグ戦において、アンドレ・ザ・ジャイアント&ザ・ハングマンのフランス系大型コンビのマネージャー役を務めた。翌1981年の第2回大会には、自身がアンドレのパートナーとなって出場。体力的には弱体だったものの、作戦参謀ぶりを発揮してリーグ戦トップの戦績で優勝戦に進出、12月10日に大阪府立体育館にてアントニオ猪木&藤波辰巳の師弟コンビを下し優勝をさらった〔。1982年の第3回大会にもディフェンディング・チャンピオン・チームとしてアンドレと共に出場したが、2連覇を果たすことはできなかった。
1980年代も古巣のAWAやフロリダを転戦しつつWWFを活動の拠点とし、ジョバーのベテラン・ヒールとしてベビーフェイス勢の売り出し役を担う。1984年よりビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下でWWFが全米侵攻サーキットを開始してからはロード・エージェントを担当するようになり、トーク番組『チューズデイ・ナイト・タイタンズ』ではカフェ・レネ(''Cafe Rene'')なるインタビュー・コーナーのホストも務めた〔。
WWFには1997年まで在籍し、退職後はノースカロライナ州のシャーロットに居住。2001年には人工股関節の置換手術を受けた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「レネ・グレイ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Rene Goulet 」があります。




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