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ロイ・エイカフ : ミニ英和和英辞書
ロイ・エイカフ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ロイ・エイカフ : ウィキペディア日本語版
ロイ・エイカフ

ロイ・クラクストン・エイカフ (Roy Claxton Acuff, 1903年9月15日 - 1992年11月23日) は、アメリカ合衆国カントリー・ミュージック歌手、フィドル奏者、プロモーター。「キング・オブ・カントリー・ミュージック」(カントリー界の王)として知られ、弦楽器を主体としたストリング・バンドや、フォークダンススクウェアダンスの伴奏となるホーダウンの様式から、スター歌手を主体とする様式への変遷に尽力し、世界的な成功に導いた。
1930年代に音楽のキャリアを開始し、歌手として、あるいは彼のバンドであるスモーキー・マウンテン・ボーイズのフィドル奏者として地域的に有名になった。1938年、『グランド・オール・オープリー』に出演するようになり、1940年代終盤には音楽家としての人気に陰りが見え始めたが、40年近く『オープリー』の中心人物およびプロモーターの1人であり続けた。1942年、テネシー州ナッシュビルを基盤とする初のメジャーなカントリー・ミュージック出版社エイカフ=ローズ・ミュージックフレッド・ローズと共に創立し、ハンク・ウィリアムズロイ・オービソンエヴァリー・ブラザーズなどと契約した。1962年、エイカフは存命人物で初めてカントリー・ミュージック殿堂に殿堂入りした〔John Rumble, "Roy Acuff". ''The Encyclopedia of Country Music: The Ultimate Guide to the Music'' (New York: Oxford University Press, 1998), pp. 4–5.〕。
== 経歴 ==

=== 生い立ち ===

テネシー州ユニオン郡メイナードビルにて父サイモン・E・ニール・エイカフと母アイダ(旧姓カー)のもとに5人きょうだいの3番目として生まれた。エイカフ家は郡内でも極めて著名な一家であった。父方の祖父コラム・エイカフはテネシー州上院議員、母方の祖父は地元の医師であった。父親はバプテスト教会牧師およびフィドルの名手、母親はピアノの名手で、エイカフが幼い頃は地元の人々がエイカフ家によく集まっていた。その集まりでエイカフは顎に農機具をのせてバランスを取ってみせ、客を楽しませた。彼は若い頃にハーモニカジャー・ハープの演奏方法を学んだ〔Colin Larkin (ed.), "Roy Acuff." ''The Encyclopedia of Popular Music, Vol. 1'' (New York: Oxford University Press, 2006), pp. 38–39.〕〔。
1919年、一家はメイナードビルの数マイル南にあるテネシー州ノックスビル近郊のファウンテン・シティに転居した〔。エイカフはセントラル高等学校に通学し、学内の教会のクワイアで歌った〔Doug Green, Charles Wolfe (ed.). "Roy Acuff Recalls His Early Days in Knoxville ." ''Old Time Music'', Vol. 12 (Spring 1974), p. 21. Large .PDF file.〕。当時は音楽よりもスポーツに興味があった。1925年の卒業後、カーソン・ニューマン大学の奨学生をオファーされたが、これを断った。彼はノックスビル周辺のいくつかの野球団で活動し、アルバイトをし、時々殴り合いのケンカをした〔。
1929年、ニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)傘下のマイナーリーグノックスビル・スモーキーズのトライ・アウトに参加した〔Jack Hurst, ''Nashville's Grand Ole Opry'' (New York: H.N. Abrams, 1975), pp. 27–28, 37, 108-111, 119-122, 138-139, 303.〕〔。春の日差しによる日射病で何度も倒れ、早々に野球を諦めた。1930年、神経衰弱を患い数年間闘病した〔。のちに、日光が全くだめだったと語った〔。療養中、エイカフはフィドルの腕に磨きをかけ、日が暮れてから自宅のポーチで演奏することもあった。父親はフィドリン・ジョン・カーソンギド・タナーなど地域的に有名なフィドル奏者のレコードをエイカフに与え、彼の初期の演奏スタイルに多大な影響を与えた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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