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ロシア皇帝(ロシアこうてい、)は、1721年から1917年までのロシア帝国で用いられた君主号である。正式名称は全ロシアのインペラートルないし全ロシアのインペラトリーツァ〔 — // 〕〔旧正書法: または〕。インペラトルの称号は大北方戦争にて勝利したことにより採用され、ヨーロッパにおける皇帝号に適応させる形で出現した。 (全ルーシの)の接頭辞はウラジーミル・スーズダリ大公国時代のロシアの君主が用いていたという表現を継続しているという意味合いが含まれていた。 == 歴史 == 『』の第一条によれば«全ロシアのインペラートルは絶対的且つ無限の君主権を有する。その最高権力は神自身の良心の命ずるところに従って統治するものである»。自身の意味と合致する«絶対的»と«無限»の用語は、法の形成、それを行政的に行使する範囲内での適切な活動ならびに司法に沿う形での全国家権力の機能が、自身の名と権力に基づいて活動するという手段を以て遂行する他の主要な国家機関の参加抜きで、独占的に遂行されるということを意味している (ст. 81)。 この第一条からロシアは絶対的且つ無限の君主が統治する法国家であるということを特徴づけている。 20世紀初頭におけるロシア皇帝の完全な称号 は以下の通り(ст. 37 осн. Зак.): 神の恩寵下における我「(ここに皇帝の名前が入る)」、全ロシア、モスクワ、キエフ、ヴラディーミルならびにノヴゴロドのインペラートルおよび絶対君主; カザンのツァーリ、アストラハンのツァーリ、ポーランドのツァーリ、シベリアのツァーリ、ケルソネスのツァーリ、グルジアのツァーリ; プスコフの領主ならびにスモレンスク、リトアニア、ヴォルィーニ、ポドレ及びフィンランドの大公;エストニア、リヴォニア、クールランド、セムガレ、ジェマイティア、ビャウィストク、カレリア、トヴェリ、ユグラ、ペルミ、ヴャトカ及びブルガールその他の公; ニジニ=ノヴゴロド、チェルニゴフ、リャザン、ポロツク、ロストフ、ヤロスラフ、ベロオーゼロ、ウドリア、オブドルスキ、コンディスク、ヴィテブスク、ムスチラブリの領主ならびに大公及び全北方国家の最高君主; 及びイベリア、カルトゥリ、カバルダの地ならびにアルメニア地区の領主; トルキスタンの領主; ノルウェー、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン、ストルマン、ディスマルシェン、オルデンブルクその他の相続人。 何らかの法に乗っ取った形での特定の場合においては«神の恩寵下における我ニコライ2世、全ロシア、モスクワ、キエフ、ヴラディーミルならびにノヴゴロドのインペラートルおよび絶対君主; カザンのツァーリ、アストラハンのツァーリ、ポーランドのツァーリ、シベリアのツァーリ、ケルソネスのツァーリ、グリジアのツァーリ、フィンランド大公及びその他。»の単純化した形のものが用いられる。 全ロシアのインペラートルの称号はピョートル1世大帝のもとで導入された。大北方戦争に勝利して1721年9月にニスタット条約が締結されると元老院とシノドはピョートル1世に対して«''通常、高貴な家柄の出であるローマの元老院が、末永く家名が存続することを記憶に留めるよう法規に乗っ取って公衆の目前で捧げられるインペラトルの称号を用いていたのと同じように。''»の公式声明を出してインペラトルの称号を贈呈することを決めた〔Шубинский С. Н. Исторические очерки и рассказы. — 6-е изд. — СПб., 1911. с. 44 — 51 〕。 1721年10月22日 (11月2日)にピョートル1世はインペラートルの称号を採用し、プロイセン王国とネーデルラント共和国は即座に、スウェーデンは1723年に、オスマン帝国は1739年に、グレートブリテン王国とオーストリアは1742年に、フランス王国とスペインは1745年に、最後にポーランド・リトアニア共和国が1764年にロシアの新君主号を承認した〔Шубинский С. Н. Исторические очерки и рассказы. — 6-е изд. — СПб., 1911, с. 44-51 〕。ロシア・ツァーリ国という国名もインペラトルに合わせて新たにロシア帝国(〔Россія//Большая энциклопедия / под ред. С. Н. Южакова. — СПБ: Просвещеніе, 1903〕)と改称したのである。 1722年2月5(16)日にピョートル1世は、これまでの中世の慣例を廃止して、帝位は男子の直系子孫に継承されるが、皇帝の意思によりそれに相応しい人物は後継者として指名されることを許されるという旨の帝位継承に関する布告を発行した。 1797年4月5(16)日にパーヴェル1世は新たな帝位継承に関する布告を作成した。これによりロシア帝位継承者は基本的には長子であることが原則とされ、それに続く者はポーランドとフィンランドとの関係が結ばれることとなった。このことは即ち、長子たる帝位継承者が死去ないし拒絶した場合に備えて継承できるように以下に続く者がその代理人としての役割を担わされたということを意味するのである。直系で帝位継承者がいない場合には傍系の者に継承順位が移ることとなっている。直系傍系を含む家系内においては男性の方が女性よりも優先とされ、女性を差し置く形で傍系男子の者が要請されることとなった。皇帝に即位する際に求められていたことは僅かに正しい信仰の告白のみである。君臨する皇帝及び継承者が16歳に達すると、例え統治能力が欠けていたとしても、自身の統治権が行使されることとになっている。ただし、皇帝に、統治して早世した場合を除く何らかの事態が生じた際には生存しているその父母が皇帝不在時にける継承者の最有力候補の地位に納まることとなっている。 ロシア帝国の統治者は皆1613年に即位したミハイル・ロマノフに始まるロマノフ家の血統に属している。もっとも1761年以降の皇統はピョートル1世の娘アンナとシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒの子孫に移り、父系ではオルデンブルク家の分枝にあたるホルシュタイン=ゴットルプ家に属していることから2人の息子であるピョートル3世以降はそれに因んだホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ家の血統に属している。 1917年3月2(15)日に皇帝ニコライ2世が皇太子アレクセイの継承権を放棄させる形で退位し、翌3(16)日に«最高統治権を委ねられていた»弟のミハイルも辞退したことで皇帝の存在は事実上消滅した形となった。9月1日には臨時政府によって共和制の布告がなされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロシア皇帝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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