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ロジェ・レーナルト(Roger Leenhardt、1903年7月23日 - 1985年12月4日)は、フランスの映画監督、翻訳家、脚本家、プロデューサー、映画理論家。批評家アンドレ・バザンにすら多大なる影響を与えた彼は、1930年代 - 1940年代映画界の持ち得えた偉大なる知性であり、ヌーヴェルヴァーグの精神的な父親と看做されている。 == 来歴・人物 == *1903年7月23日、南仏・エロー県のモンペリエのプロテスタント系ブルジョワの名家に生まれる。パリのソルボンヌ大学で哲学と文学を修めた。従弟に録音技師のトニー・レーナルト(1906年 - 1982年)がいる。 *1934年、短編第一作『''Le Tapis moquette''』を発表。 *1934年11月の『''Note sur la presse filmée''(報道映画についての覚書)』など『エスプリ ''Esprit''』誌に多数の映画コラムを書き〔『エスプリ』誌公式サイト内Le cinéma dans Esprit を参照。〕、戦後『レクラン・フランセ』誌にも参加、『''A bas Ford! Vive Wyler!''』などの記事でジョン・フォードやウィリアム・ワイラーらアメリカ映画を擁護した。その執筆活動から「最初の映画理論家」と呼ばれる。 *1947年、長編第一作『最後のバカンス』を撮影、翌1948年5月24日公開。製作は「レ・フィルム・ロジェ・レーナルト(Les Films Roger Leenhardt)」。 *1948年、『レクラン・フランセ』の執筆仲間であるバザン、アレクサンドル・アストリュックらとともに、「ヌーヴェルヴァーグのゆりかご」となった集団として知られる前衛的シネクラブ「オブジェクティフ49」の設立に参加する。会長はジャン・コクトー。 *1951年、短編映画『ヴィクトル・ユゴー』を発表。映画監督としては、基本的に短編作家である。40本近い作品を残した。 *1957年5月、『カイエ・デュ・シネマ』誌掲載の「フランス映画についてのディスカッション」に、バザン、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、ピエール・カスト、ジャック・リヴェット、エリック・ロメールとともに参加する〔''Cahiers Du Cinema: The 1950's Neo-Realism, Hollywood, New Wave'' (Harvard Film Studies) 英語 ISBN 0674090616〕。 *1961年、長編第二作『真夜中のランデブー』を撮影、翌1962年公開。プロデューサーは『二十四時間の情事』(アラン・レネ、1959年)で成功を収めたアナトール・ドーマン、製作はアルゴス・フィルム。 *1965年、アンドレ・S・ラバルトとジャニーヌ・バザンプロデュースによるテレビドキュメンタリーシリーズ『われらの時代のシネアストたち ''Cinéastes de notre temps''』(製作ORTF〔仏語版WikipediaOffice de radiodiffusion télévision françaiseの項を参照〕)の『ロジェ・レーナルトあるいは最後のユマニスト ''Roger Leenhardt ou Le dernier humaniste''』(ラバルト演出)に出演する。『最後のバカンス』のタイトルにちなみつつ、レーナルトを最後のユマニスト(人文主義者)と位置づけた。 *1985年12月4日、パリで死去。死因は心臓発作。82歳。 *彼の経営していた製作会社「レ・フィルム・ロジェ・レーナルト」(ソルボンヌ近くに現存)は、アレクサンドル・アレクセイエフらのアニメーションや、ポール・ヴェキアリ監督の短編『''Les Roses de la vie''』(1962年)など、短編を中心に精力的に製作した。プロデューサーとして、教育映画ドキュメンタリー短編映画製作者組合(Syndicat des Producteurs de Films Educatifs, Documentaires et de Courts Métrages)の副会長を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロジェ・レーナルト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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