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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
"ムーンドッグ" ロニー・メイン("Moondog" Lonnie Mayne、本名:Ronald Doyle Mayne、1944年9月12日 - 1978年8月13日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。カリフォルニア州フェアファクス出身。 ボサボサに伸ばしたブロンドの髪と髭、凶器に使用する動物の骨など、ムーンドッグ・スタイルの先駆的存在となった狂乱ファイターである。 == 来歴 == デビュー後は太平洋岸北西部のオレゴン州やワシントン州をサーキット・エリアとするNWAパシフィック・ノースウエスト・レスリング(PNW)にて活動。1966年3月にはロニー・メインのリングネームで日本プロレスに初来日、『第8回ワールドリーグ戦』の予選でジャイアント馬場とも対戦した。 その後、ムーンドッグ・スタイルを確立し、特異なキャラクターの野獣派ヒール、ムーンドッグ・メインに変身。1967年11月28日、ポートランドにてジン・キニスキーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、反則負けを喫している。1968年11月は日本プロレスに再来日し、ブルート・バーナードと狂乱コンビを結成、12月7日に栃木県体育館にて大木金太郎&吉村道明のアジアタッグ王座に挑戦した。 主戦場のPNWでは1960年代後半から1970年代初頭にかけて、ルーサー・リンゼイ、スタン・スタージャック、マッドドッグ・バション、ロジャー・カービー、ミスター・フジなどを破り、パシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を再三獲得。タッグでは、マット・ボーンの父親である "タフ" トニー・ボーンとのコンビで活躍した。狂乱ファイトの一方でコミカルなキャラクターも支持され、ベビーフェイスのポジションでも活動していた。 1973年はWWWFに進出し、1月15日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてペドロ・モラレスのWWWF世界ヘビー級王座に挑戦。ブルーノ・サンマルチノやヘイスタック・カルホーンとのシングルマッチも行われた〔。同年7月には新日本プロレスに来日、外国人選手の招聘ルートが脆弱だった当時の新日本ではエース格となり、メインイベントでアントニオ猪木と度々対戦した。 1973年下期より地元カリフォルニアのサンフランシスコ地区に参戦し、12月29日に同地区のフラッグシップ・タイトルであるUSヘビー級王座をパット・パターソンから奪取。翌1974年もパターソンやピーター・メイビア、ロッキー・ジョンソンらを相手に、同王座を巡る抗争を展開した。1975年からは南部にも進出し、ジョージアではアブドーラ・ザ・ブッチャーともタッグを結成〔。テキサスではベビーフェイスに転向し、1977年1月にフリッツ・フォン・エリックと組んでザ・シーク&ゲーリー・ハートと対戦している〔。 太平洋岸での活動も続け、1978年はサンフランシスコとロサンゼルス(NWAハリウッド・レスリング)の両テリトリーを股にかけて活動。サンフランシスコではベビーフェイスとなって観客の声援を集め、5月13日にドン・ムラコからUSヘビー級王座を奪取、6月24日にロディ・パイパーに敗れてタイトルを失うも、7月15日にパイパーを破って奪還に成功した〔。 ロサンゼルスではヒールとしてミル・マスカラスとも対戦し〔、8月11日にはヘクター・ゲレロを下してアメリカス・ヘビー級王座も獲得。サンフランシスコのUS王座と合わせ、カリフォルニアの2大テリトリーにおける看板タイトルの2冠王となったが、2日後の1978年8月13日、自動車事故により死去〔。。 彼の死後、両タイトルは空位となり、アメリカス王座は8月25日にチャボ・ゲレロが〔、US王座は9月16日にバディ・ローズが〔、それぞれ新王者決定トーナメントを制して戴冠している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロニー・メイン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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