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ロバート・カミング・シェンク : ミニ英和和英辞書
ロバート・カミング・シェンク[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ロバート・カミング・シェンク : ウィキペディア日本語版
ロバート・カミング・シェンク[ちょうおん]

ロバート・カミング・シェンク(Robert Cumming Schenck, 1809年10月4日 - 1890年3月23日)は、アメリカ合衆国軍人南北戦争では北軍の将軍を務め、第一次ブルランの戦いクロスキーズの戦い第二次ブルランの戦いに参加した。
== 生い立ちと初期の経歴 ==
1809年10月4日オハイオ州ウォーレン郡フランクリンにて生まれる。1821年に父親と死別。ジェイムズ・フィンドレーの後見を受けて成長する。
1824年マイアミ大学に2年生として入学。1827年に文学士号を取得し大学を卒業するが、その後もオハイオ州オックスフォードに残りフランス語ラテン語の個人教師に従事した。1830年、文学修士号を取得。
トマス・コーウィンの下で法律を学び1831年に弁護士認可を受ける。その後オハイオ州デイトンに移り、開業弁護士として頭角を現しジョセフ・ハルゼー・クレインと共同で弁護士事務所「クライン・アンド・シェンク」を経営した。
1838年には政界への進出を目指し州下院議員に立候補するが敗北。1841年、再び州下院議員に立候補し当選する。1840年の大統領選挙ではホイッグ党を支持し、有能な演説者の1人として高い評価を獲得した。1843年に連邦下院議員に選出され、1849年まで4期連続で当選、1847年には道路運河委員会の委員長も務めた。当時、奴隷制廃止の申し立てを抑制するため長期にわたり言論統制法が施行されており、シェンクはこれを撤廃するよう訴え、また米墨戦争を奴隷制度を促す侵略戦争だと批判した。
1851年、連邦下院への再選を辞退すると、同年3月ミラード・フィルモア大統領から駐ブラジル公使に指名され、また駐ウルグアイ公使、駐アルゼンチン公使、駐パラグアイ公使の信任状も与えられた。彼はブエノスアイレスモンテビデオアスンシオンを歴訪してラプラタ川およびその支流流域諸国と条約の締結に成功、そのうちの一部はアメリカに最恵国待遇を与えるものであった。しかしウルグアイとの通商条約はアメリカ上院が批准を棄却、これは1852年の大統領選挙におけるホイッグ党の敗因の1つとなった。
1854年オハイオ州へ帰郷。一般的な共和党員の立場からすればシェンクに対する印象は悪いものではなかったが、ジョン・C・フレモントが彼に対して非常に強い反感を抱いており、シェンクは一時的に政治から離れる。彼はオハイオ州において弁護士として名声を確立し、またフォートウェイン西武鉄道の社長となった。シェンクはその後も共和党内でより多くの支持を獲得し、1859年9月にはデイトンで演説を行い国内で高まりつつある敵意に言及、この演説において共和党はエイブラハム・リンカーンを大統領に指名すべきであると主張した。
これは、公の場においてリンカーンを大統領候補として支持した、最初の出来事と考えられている。1860年シカゴで開催された政治集会とその後の選挙運動においても、強い熱意でリンカーンを支援した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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