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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ロバート・キャパ(Robert Capa | ˈɹɑ(ː)bɚtˈkæpə , 1913年10月22日 - 1954年5月25日)は、ハンガリー生まれの写真家。 本名はフリードマン・エンドレ・エルネー(Friedmann Endre Ernő ˈɛndrɛ ˈɛrnøː )。フランス語読みのアンドレ・フリードマン(André Friedmann )の名で呼ばれることも多い。同じく写真家で、1974年にICP(国際写真センター)を創設したコーネル・キャパは弟。 スペイン内戦、日中戦争、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、第一次中東戦争、および第一次インドシナ戦争の5つの戦争を取材した20世紀を代表する戦場カメラマン、報道写真家として有名である。「ロバート・キャパ」と銘打たれた初期の作品群は、実際には、親しくしていたゲルダ・タローとの共同作業によるものである〔〕。スペイン内戦で親交を持ったヘミングウェイ、アルジェで知り合ったスタインベック、ピカソら多方面の作家・芸術家たちとの幅広い交際も有名である。 == 生涯 == フリードマンは1913年10月22日、洋服店を営んでいたユダヤ系(アシュケナジム)の父フリードマン・デジェー(Friedmann Dezső、)と母ベルコヴィッチ・ユリアンナ・ヘンリエッタ(Berkovits Julianna Henrietta、)の次男として、ハンガリーのブダペストに生まれた。 1919年に福音派の学校に入学、1923年にマダーチ・イムレ・ギムナジウムに入学。1931年に共産党活動容疑で逮捕される。釈放後はドイツのベルリンで写真通信社「デフォト」の暗室係となる。1932年に彼にとって最初期のものとなるデンマークで講演するレフ・トロツキーの写真を撮影。1933年にはユダヤ人排斥が激しくなり母と弟はアメリカへ亡命した(父デジェーはブダペストに残ったが、その後の消息については分かっていない)。フリードマンもベルリンを脱出しブダペストでヴェレシュ旅行社のカメラマンとなる。翌年にフーク・ブロック通信社の臨時雇いとなる。 その後フランスのパリに拠点を構えたものの、フリードマンの写真はほとんど買ってもらえず、わずかに売れた場合でもひどく安値で、まともに生活できるほどの生活費が得られない状態だった。あまりに困窮したため、同時期にパリに在住していた川添浩史のアパルトマンに入り込むこともあったという。その後写真の仕事を通じて知り合った同じユダヤ人仲間のゲルダ・タローが架空の、既に偉大な業績があるカメラマン「ロバート・キャパ(Robert Capa)」なる人物がこの世にいることにしてしまって、フリードマンはその人物になりすまして、写真を持ち込み売れば高く売れるということを持ちかけたとされる。そのころフリードマンはタローと同棲するようになっていた。 フランスの写真週刊誌『ヴュ』の1936年9月23日発刊の号に彼らの写真が採用され、「死の瞬間の人民戦線兵士」というタイトルが付され、さらに翌年その写真が、大きな発行部数を誇り影響力の大きかったアメリカのグラフ誌『LIFE』の1937年7月12日の号に転載された際に撮影者の名前に「ロバート・キャパ」と記されていたことで、この名が一躍知られることとなった。この写真が、いわゆる「崩れ落ちる兵士」と呼ばれている写真である。この写真を公表したころから、タローらの「そそのかし」の通りに、フリードマンは「ロバート・キャパ」という名前(架空の人物名、あるいは仮名、偽名)を用いるようになったとされる〔このあたりのいきさつが不明だった段階では「英語圏で読みやすい名前に変えた」などという推測だけが語られることも多かった。〕。この写真は、これらの雑誌に掲載された時に写真の下に付記されていたタイトルや解説などが信じられることによって「1936年7月のスペイン内戦勃発した時期にゲルダ・タローと従軍し、9月、コルドバ戦線で頭部を撃ち抜かれ倒れる瞬間の人民戦線兵士を撮ったものだ」と世界の人々から見なされた。 しかし近年の研究で、この写真は実際の戦場を撮ったものではなく、さらに被写体は死んでおらず、また撮影者はキャパではなくゲルダであると指摘されている〔沢木耕太郎 「キャパの十字架」『文藝春秋』2013年1月号〕(NHK沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚〜“戦場”写真 最大の謎に挑む〜2013年2月3日放映)。ゲルダは1937年7月26日、単独でスペイン内戦の取材を行っていた際に事故に巻き込まれ死亡した。 キャパは1938年に初の写真集「生み出される死(Death In The Making)」を発表。同年に日中戦争を取材。1939年にアメリカ合衆国に移り、翌年に永住権を得る。1940年にメキシコに数ヶ月滞在し大統領選を取材。1942年『』の特派員としてロンドンに渡る。1943年に北アフリカ戦線、イタリア戦線を取材。その間に突如『コリアーズ』の契約を解除されてしまうが、知己のあった『ライフ』と契約した。 1944年にはノルマンディー上陸作戦を取材。第1歩兵師団第16連隊第2大隊E中隊に従軍した。最大の戦死者を出したオマハ・ビーチにてドイツ軍と連合軍が入り乱れる中、100枚以上の写真を撮影した。しかし現像の際に興奮した暗室助手のデニス・バンクス〔Morris blames it on a young developer named Dennis Banks. John G. Morris, "Get the picture, A personal history of photojournalism", Random House Inc, N-Y 1998〕が乾燥の際にフィルムを加熱しすぎてしまったために感光乳剤が溶け、まともな写真として残っているものは11枚しかなかった(8枚という説もある)。これが後に彼の写真著書『ちょっとピンぼけ』のタイトルに反映されたという。8月にはパリ解放を撮影。同年12月のバルジの戦いを経て、1945年の終戦まで取材した。 戦後の1946年にアメリカ市民権を獲得し、イングリッド・バーグマンやピカソら著名人を撮影した。特にバーグマンとは恋仲になったものの、結婚するまでに至ることはなく別れている。1947年にアンリ・カルティエ=ブレッソン、デヴィッド・シーモア、ジョージ・ロジャーらと国際写真家集団「マグナム」を結成。同年にジョン・スタインベックらと共にソビエト連邦へ旅行に向かう。1948年にはイスラエルの建国と第一次中東戦争を取材した。 1954年4月に日本の写真雑誌『カメラ毎日』の創刊記念で来日、市井の人々を取材した。程なく東京で『ライフ』から第一次インドシナ戦争の取材依頼を受け、北ベトナムに渡る。5月25日、午前7時にナムディンのホテルを出発、タイビン省のドアイタンにあるフランス軍陣地に向かう。午後2時30分ころドアイタンに到着。2名の後輩カメラマンと共にフランス軍の示威作戦へ同行取材中の午後2時55分、ドアイタンから約1キロの地点にある小川の堤防に上った際に地雷に抵触、爆発に巻き込まれ死亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロバート・キャパ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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