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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
初代準男爵サー・ロバート・ブライス・キングスミル(Sir Robert Brice Kingsmill, 1st Baronet 1730年-1805年11月23日)はイギリス海軍の士官である。七年戦争、アメリカ独立戦争、そしてフランス革命戦争とナポレオン戦争に従軍し、軍歴は60年近くにも及んだ。ホレーショ・ネルソンの親友でもあった。西インド諸島でジョージ・ブリッジズ・ロドニーと共に任務に就いたが、戦闘で負傷し、1778年のウェサン島の海戦では、オーガスタス・ケッペルの艦隊の一員として参戦した。また、国会議員として政治にも足を踏み入れたが、戦争が勃発するたびにそれを投げ打って海軍の任務に就いた。1793年、フランス革命戦争の勃発の頃に将官となり、キングスミルはアイルランド沿岸の最高司令官として数度にわたるフランスのアイルランド侵攻や反乱の扇動を撃退した。1805年11月23日、シドモントンコートで没した。晩年は準男爵に叙せられ、最終階級は青色大将だった。 ==海軍入隊と家族== キングスミルは、ベルファストのキャッスル・チチェスターで、イギリス海軍大佐のチャールズ・ブライスと妻メアリーの息子として生まれた。元々の名はロバート・ブライスだった。1746年10月29日に、父の後を追って海軍に入隊し、14門スループ船のの熟練船員となった〔。数年間スピードウェルで任務に就いた後、1748年10月3日に士官候補生となり、1754年7月5日に海尉試験に合格して、1756年4月29日に委任状を受けた〔。七年戦争の勃発により、ブライスはさらに昇進の機会を得、1761年2月には、やはりスループ船のの艦長兼指揮官となって、この年の7月3日にフランスの私掠船スルタンを拿捕し、自らの地位を確固たるものとした。その後まもなく臼砲艦に異動した。この時期に一度本国に呼び戻され、ジョージ3世と結婚予定の、メクレンブルク=シュトレーリッツのシャルロッテ公女と、その随行員を送り届けるためのヨットに乗務した。この航海は激しい嵐のためなかなか進めなかったが、すべてのヨットと海軍軍人たちは無事にメクレンブルク=シュトレーリッツに到着した。その後ブライスはバシリスクに戻り、ロドニーと西インド諸島へ向かい〔。マルティニークとセントルシアへの急襲の支援を行ったが、ブライスはこの時に負傷した〔。 軍功への見返りとして、ブライスは1762年5月26日、ポストキャプテン(肩書のみでなく職権を有する海軍大佐)に昇進した。また、28門の6等艦の指揮を命じられた〔。その後西インド諸島に戻り、七年戦争が終結した1764年までそこに滞在してからイギリスに戻った〔〔。1766年頃にエリザベス・コリーと結婚した。エリザベスは、ハンプシャーのシドモントンコートを、その年の1月8日に亡くなったおじから土地を受け継いでいた〔〔。ブライスはいったん海軍を退役し、戦争のない日々を、新しく得た富と地位を満喫しながら過ごした〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロバート・キングスミル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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