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ロバート・トッド・リンカーン( , 1843年8月1日 - 1926年7月26日)は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士、実業家。第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンとメアリー・トッド・リンカーンの長男で4人の息子のうち、唯一成人するまで存命した。 共和党に所属し、ジェームズ・A・ガーフィールド政権およびチェスター・A・アーサー政権下で第35代アメリカ合衆国陸軍長官を務めた。その後、ジョージ・プルマンが亡くなった1897年にプルマン・パレスカー社の社長に任命された。 バーモント州マンチェスターにある別荘のは1977年にアメリカ合衆国国家歴史登録財に登録されている。 == 家族と生い立ち == ロバート・トッド・リンカーンは1843年8月1日にエイブラハム・リンカーン(1809–1865)とメアリー・トッド・リンカーン(1818–1882)の長男として、アメリカ合衆国のイリノイ州スプリングフィールドにて出生した。彼にはエディ(1846–1850)、ウィリー(1850–1862)、タッド(1853–1871)という名の3人の弟がいた。ロバートが生まれるころには父はイリノイ州議会議員を4期務め、ホイッグ党の主要メンバーの1人になっていた。ロバート・リンカーンは母方の祖母にちなんで名付けられた〔Emerson(2012年) pp.6-7〕。 父親がアメリカ合衆国大統領に就任したとき、大統領の3人の息子のうち、ロバートのみがほとんど親に頼らず、独り立ちしていた〔Roberts(2004年) p.63〕。1859年にハーバード大学の入学試験を受けたが、16科目中15科目の試験に落ちた。その後、大学に通う準備をするためにフィリップス・エクセター・アカデミーに入学して1860年に卒業した。それからハーバード大学に入学して、1864年に卒業した。との会員でもあった〔Emerson(2012年) p.79〕。 ハーバード大学卒業後はハーバード・ロースクールに在籍した。ロバートが初めて父親に対してロースクールへの関心を示したときに、リンカーン大統領は「やるならこれまでの私以上に学ばなければならないが、あまり良い人生を過ごせないかもしれないね」と忠告している〔Burlingame(2008年) p.91〕。1864年9月から1865年1月まで通ったが、南北戦争で北軍に参加するためにロースクールを去った。 メアリー・トッド・リンカーンは終戦直前までロバート・リンカーンを軍務につかせることをためらい、大統領を困惑させた。ウィリーの死のショックでロバートが戦死してしまうのを恐れていた。1865年1月にファーストレディがついに屈し、リンカーン大統領はユリシーズ・S・グラントに手紙を書き、ロバートを直属の部下として配属させられるか尋ねた〔Burlingame(2008年) pp.738-739〕〔Charnwood(2009年) p.444〕。 1865年2月11日にロバートは大尉に任命され、さらにアメリカ南北戦争の最後の数週間はグラント将軍の側近を務めて実戦から遠ざけられた。ロバート・E・リー将軍が降伏した時にはアポマトックスにいた〔。 父親エイブラハムとは疎遠な関係であったとされる。幼少期は巡回裁判所の判事を務めていた父親と会話をする機会がほとんど与えられなかったことがその原因に挙げられる。エイブラハムとロバートの親子関係はトーマス(ロバートの祖父)とエイブラハムの親子関係に似ていた〔Roberts(2004年) pp.87-88〕。ロバートは「私の幼年時代から青年時代初期にかけて、出廷したり政治的なスピーチをしたりで、彼はほとんど絶えず家に居なかった」と述べており〔Emerson(2012年) p.10〕、また、後年にイリノイ州各地を旅行するためにサドルバッグに荷物を詰めている場面が特に鮮明な記憶として残っていると振り返っている〔Donald(1996年) p.159〕。ただ、エイブラハムはロバートの存在を誇りに思い、輝ける人物であるとみており、息子について将来は自分の政治的ライバルになり得るとも考えていた〔Donald(1996年) p.428〕。ウィリーやタッドと違い、父親と強い信頼関係を築けなかったが、ロバートは父親を偉大な人物として賞賛し、その死に際しては公然と泣きくれた〔Donald(1996年) p.599〕。リンカーン大統領銃撃事件の日の夜はフォード劇場で観劇する両親に同行する誘いを受けていたが、「ここ最近、出征してで多くの時間を過ごしたばかりなので疲れがたまっている」との理由で断っていた〔Emerson(2012年) p.100〕。 メアリーがロバートに「ここを出る準備をするなんてとてもできないわ」と伝えていたため、1865年4月25日にロバートは後継の合衆国大統領アンドリュー・ジョンソンに、彼の家族がホワイトハウスに2週間半ばかり滞在するのを許可してくれるように頼む手紙を書いた。ロバートはジョンソンが合衆国大統領に就任して以来、「大迷惑」と感じていたのに気付いていたことも認めている〔Graf(1986年) p.639〕。 父親が暗殺された後、しばらくしてロバートは母親メアリーおよびタッドとイリノイ州シカゴへ移り住み、で法律を学んだ。1866年1月1日に母親、弟と同居していたアパートを去った。彼は家族と一緒に生活していたときには経験しなかった「いくぶんか快適な暮らしに順応していく」ためにシカゴのダウンタウンに自分が住む部屋を借りた〔Emerson(2012年) p.121〕。1867年2月22日にシカゴで弁護士として認可された。その4日後、1867年2月26日に法律業従事者に認定された〔Emerson(2012年) p.124〕。 1868年9月24日に連邦上院議員ジェームズ・ハーランの娘、と結婚した。夫妻は娘2人と息子1人をもうけた。 * (1869年10月15日-1938年11月21日) * (1873年8月14日-1890年3月5日) * (1875年11月6日-1948年1月4日) まだ空気調和前の時代にあって、ロバートの一家はひんぱんに都市生活を抜け出し、涼しい気候のアイオワ州へ旅した。1880年代に一家はハーラン家で夏を過ごした。1876年に建てられたハーラン・リンカーンの家は現存している。メアリー・ハーラン・リンカーンが1907年にに寄贈し、現在はリンカーン家にまつわる歴史的な芸術品を今に伝える博物館となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロバート・トッド・リンカーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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