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ロバート・ハウ : ミニ英和和英辞書
ロバート・ハウ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ロバート・ハウ : ウィキペディア日本語版
ロバート・ハウ[ちょうおん]

ロバート・ハウ(、1732年 - 1786年12月14日)は、アメリカ独立戦争時のノースカロライナ植民地出身、大陸軍少将である。ノースカロライナ植民地では著名なムーア家の出身であり、大陸軍では同植民地出身の5人の将軍の1人、かつ唯一の少将となった。植民地さらにノースカロライナ州政府に参加し、その双方で議員を務めた。
ハウはフレンチ・インディアン戦争(1754年-1763年)のときに植民地民兵隊に従軍し、ケープフェア川河口にあるジョンストン砦指揮官を務めた。世直しの戦争(1764年-1771年)の時は、ウィリアム・トライアン総督の砲兵隊で大佐だった。個人的にも友人だったトライアンがニューヨーク総督となり、その後継者に断固として対抗したので、大いに苦しんだ時期があった。1773年から1775年、ノースカロライナの中、さらにアメリカ各植民地の中の組織化を行う動きで活発に活動し、ノースカロライナ植民地議会の議員になった。アメリカ独立戦争が始まったときに准将に昇進し、南部方面軍の戦闘に深く関わり、サバンナが占領された時は、大陸軍と愛国者民兵隊を指揮していた。
ハウの軍隊指揮官としての経歴については異論が多く、主にジョージアサウスカロライナの政治および軍隊指導者との抗争で消耗させられた。1778年、サウスカロライナ政府との抗争が一部原因となって、サウスカロライナの副知事クリストファー・ガズデンと決闘することになった。政治や個人的な対立に、ハウを嫌う者達から女たらしと評判されたことが組み合わされ、大陸会議から南部方面軍の指揮官職を剥奪されることになった。その後ニューヨークに派遣され、ハドソン高原でジョージ・ワシントン将軍の下に仕えたが、その期間には成功も重要な経歴も積めなかった。ベネディクト・アーノルドがアメリカを裏切り、ウェストポイントをイギリスに渡そうとした策謀では、アーノルドを援助したことで告発されたイギリス軍士官ジョン・アンドレを審問し、死刑判決を出した軍法会議を主宰した上級士官となった。ハウ自身もイギリスに寝返ろうとしたことで告発されたが、当時イギリス軍が大陸軍の中に不和を起こそうとしていた中でのことだったので、告発は棄却された。戦後、ニュージャージーフィラデルフィアペンシルベニアおよびニュージャージー部隊の反抗を何度か鎮める行動に加わり、1783年にノースカロライナの故郷に帰った。その後再度州議会で活動したが、1786年12月、州議会の会期に参加するために向かっている途中で死んだ。
== 初期の経歴と家族 ==

ハウは1732年にジョブ・ハウの息子として生まれた。曽祖父は植民地総督のジェイムズ・ムーアであり、カロライナ植民地の南部を統治していた。父のジョブはジョン・イーマンス総督の子孫でもあった。ハウの母はノースカロライナ植民地の法学者フレデリック・ジョーンズの娘で、ジョブの最初の妻マーサだった可能性がある〔, cf where Jane, Job's third wife, is attributed as his mother, and , where Howe's mother is called Sarah.〕。ジョブ・ハウの先祖は17世紀後半と18世紀初期にサウスカロライナの農園主かつ政治家だった。ハウが生まれる前に、家族はチャールストンを離れ、ノースカロライナ植民地ケープフェア川の岸に入植した。ハウの父はムーア家の縁戚であり、ケープフェア川下流に入って、1730年代までに8万エーカー (320 km2) 以上の農地を所有していた。ジョブ・ハウは1748年に死に、その資産と富をロバートに残した。ロバートには2人の兄弟と2人の姉妹がいた。その全てがジョブの遺書に書かれていた。
ハウは若い時にイングランドに行って教育を受けさせられたが、幾つかの史料では実際に行ったのか疑問を投げかけている〔。教育を受けた後の1751年から1754年の間のいずれかの時点で、大きな資産の相続人だったサラ・グランジと結婚した。ハウは多くの情事を経験し、婚姻の有り無しを含め多くの子をもうけた。その中には息子のロバート、メアリーとアンの2人の娘がおり、他に母の名前が記録されていない4人までの娘がいた。同時代の者からは女たらしだと広く認められていた。1772年までにグランジと疎遠になり、離婚した。正式に離婚した年に妻の支援のために土地の権利譲渡を行っている。
ロイヤリストの同調者で日記作者のジャネット・ショーが、独立戦争前のハウについて次のように記述していた。

ハウは祖母から、また父の死によって莫大な資産を相続しており、元はバーレン入り江と呼ばれた(現在はメイソン入り江と呼ばれている)場所の近くにあるコメのプランテーション、「ハウズ・ポイント」の所有者になった)。この元プランテーションだった場所は、フィギュアエイト島の対岸本土にある。また、ブレイデン郡にも「マウント・ミザリー」と呼ばれるプランテーションを所有していた。祖母が奴隷と金を遺しており、ハウはそれで自分の資産を築くつもりだった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロバート・ハウ」の詳細全文を読む




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