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ロバート・ワイト(Robert Wight、1796年7月6日 – 1872年5月26日)はスコットランドの医師、植物学者である。30年以上、インドで過ごし、マドラス植物園の園長を務めた。現地の画家を使って、植物の絵を描かせ、6巻の植物図鑑、"''Icones Plantarum Indiae Orientalis''"(「西インドの植物図鑑」)などを出版した〔Noltie, H. J. (1999) Indian botanical drawings 1793-1868 from the Royal Botanic Garden Edinburgh. Royal Botanic Garden Edinburgh. Edinburgh.〕〔Noltie, H. J. (2005) Robert Wight and the Illustration of Indian Botany. The Hooker Lecture. The Linnean. Special Issue No 6.〕〔Noltie, H. J. (2007) ''The Life and Work of Robert Wight'' . (Book 1), Botanical Drawings by Rungiah & Govindoo: the Wight Collection (Book 2) Journeys in Search of Robert Wight (Book 3) ISBN 978-1-906129-02-6〕。 ==生涯== エディンバラの法廷外弁護士(Writer to the Signet)の息子として、スコットランドのイースト・ロシアンに生まれた。エディンバラ大学で学び、外科医の認可を1816年に受けた。2年間、船医として働いた。1819年に、東インド会社の軍医助手としてインドに渡った。植物学に興味を示し、マドラスに移り、1826年に東インド会社の博物学者の職を得た。1826年から1828年の間に、南インドで多数の植物を採集し、グラスゴー大学のウィリアム・ジャクソン・フッカーに送った。マドラス近郊、ヴェールール、サマラーコタ、ラージャムンドリーなどで集められた。現地の協力者によってコレクションを充実させた。1826年に植物園の仕事から、軍医の仕事に戻されたが、タンジャーヴールの植物の研究を続けた。軍医としいての地位も昇進した。 1831年に健康を害して、スコットランドに戻った時、3000から4000の種の100,000に及ぶ標本を持ち帰った。荷物は2トンにも及んだ。標本はグラスゴー大学の植物学教授、ウォーカー=アーノット(George Arnott Walker-Arnott)によって研究され、ワイトも2巻からなり、200の図版をつけた著書、"''Spicilegium Neilgherrense''"を出版した。1840年から1850年の間にも"''Illustrations of Indian Botany''"を出版し、高く評価された。ウォーカー=アーノットと共著で"''Prodromus Florae Peninsulae Indiae Orientalis''"も執筆した。 1834年にインドに戻り、軍医の仕事に戻った後、1836年にタバコや綿花などの栽培を統括する産業部門に転属した。1841年から1850年の間コインバトールの試験農場で働いた。ジェームズ・サワビーの"''English botany or coloured figures of British plants''" (「英国産植物図譜」)に匹敵するインドの植物の図譜を作ることに興味を持った。自宅に20人もの現地の画家を集めに図を描かせた。彼の好んだ画家、Rungiah (Rungia) と Govindooは、6巻の「西インドの植物図鑑」の大半の図版を描いた。インド人の画家、Govindooの名を、ラン科の属名、ゴヴィンドーイア属(''Govindooia''、属のシノニム)に命名したのは当時のイギリス人としては珍しいことであった。 マドラス農業園芸協会(Madras Agri-Horticultural Society)を設立し、マドラス文芸科学雑誌(Madras Journal of Literature and Science)に寄稿した。綿花の記事をガーデンズクロニクルに寄稿し、エドワード・ウォーニング(Edward John Waring)のインド薬局方のために薬用植物の効能などの情報を与えた。インドで活動する植物学者や園芸家を支援し、ウィリアム・グリフィスが没した後の、カルカッタ博物学雑誌(Calcutta Journal of Natural History)の発行の継続を支援し、グリフィスの乾燥標本の保全に貢献した。 1853年に引退して、イギリスに戻った。レディング近くに家を買い、農作を始めた。最後の公職は、コインバトールの棉の実験農場で働いた。4000近くの、インドの植物標本はキューガーデンに寄付された。 生涯を通じて、3000以上の種について記載し、ジョセフ・ダルトン・フッカーの"''flora of India''"(「インドの植物」)には40の属と500以上の種が新種として確認された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロバート・ワイト」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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