翻訳と辞書
Words near each other
・ ロベルト・ゼーベレック
・ ロベルト・ソト
・ ロベルト・ソリアーノ
・ ロベルト・ソルダード
・ ロベルト・タレンツィ
・ ロベルト・ダイクラーフ
・ ロベルト・ダンジョ
・ ロベルト・ダ・シルヴァ・アルメイダ
・ ロベルト・チェコン
・ ロベルト・チェロ
ロベルト・チコ・バルボン
・ ロベルト・ディナミッチ
・ ロベルト・ディルブンディ
・ ロベルト・ディル=ブンディ
・ ロベルト・ディ・カンディド
・ ロベルト・ディ・マッテオ
・ ロベルト・デュラン
・ ロベルト・デ・アシス・モレイラ
・ ロベルト・デ・アルメイダ
・ ロベルト・デ・ソウザ・レゼンデ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ロベルト・チコ・バルボン : ミニ英和和英辞書
ロベルト・チコ・バルボン
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ロベルト・チコ・バルボン ( リダイレクト:ロベルト・バルボン ) : ウィキペディア日本語版
ロベルト・バルボン

ロベルト・バルボンRoberto Barbon , 1933年3月13日 - )は、キューバ出身の元プロ野球選手内野手)。
愛称は「チコ(Chico)」(スペイン語で「坊や」「小柄」などの意)。「チコ・バルボン(Chico Barbon)」とも。
2014年現在はオリックス・バファローズ野球教室名誉顧問〔【シマチカ姉さんが行く】「チキンライスばかり食べていた」…来日60年、キューバ出身第1号の元阪急バルボンさん、母国の後輩たちのプレーに感無量 産経WEST 2014年9月15日付〕。
== 来歴・人物 ==
11人兄弟の末っ子として生まれたバルボンはにブルックリン・ドジャース傘下のマイナーリーグで1年間プレー。その後、「日本は温かい国。キューバと気候はあまり変わらない」という代理人の言葉を鵜呑みにして、翌に阪急ブレーブスに入団し、来日。来日当初は現在の日本球界のように通訳がおらず、日本の生活に馴染むのに苦労しており、日本食も口に合わず唯一口にあったチキンライスを毎日食べていたという〔【8月4日】1964年(昭39) 3年で帰るはずが…“チコ”バルボン 10年目の大台 〕。
来日1年目からシュアな打撃と49盗塁するなど俊足を武器に活躍〔野球小僧remix プロ野球[外国人選手]大事典、白夜書房、2011年、P22〕。 - と3年連続の盗塁王に輝く。に1000本安打を達成。翌に近鉄バファローズに移籍〔この時、近鉄は同じ二塁手だったジャック・ブルームフィールド南海ホークスに移籍させた。〕、同年限りで現役引退。その後神戸でステーキ屋を経営していた〔。1974年から2年間(1974年は一軍、1975年は二軍)は阪急でコーチを務めた。〔阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶 1936-1988、ベースボール・マガジン社、2011年、p128〕
タフィ・ローズが記録を更新するまでは、歴代外国人選手トップの最多出場数1353試合の記録を持っていた。
現在、外国人選手で盗塁王となっているのはバルボンとラリー・レインズの2人のみ。いずれも阪急所属時に記録している。
現役時代、背番号を「8」から「4」に変更しているが、日本では本来、「4」は「死」に繋がると忌み嫌われる番号とされ、特に外国籍選手は着用を避ける傾向があるが、母国・キューバでは逆に末広がりで縁起の良い「8」が忌み嫌われる数字で逆に「4」が縁起が良い数字との事(「阪急ブレーブス黄金の歴史」)。
性格が明るく、「チコ」と呼ばれて親しまれた(名付け主は阪急時代のチームメイト河野旭輝)。当初は3年で帰国しようと考えていたものの祖国でキューバ革命が起こり冷戦終結までの間帰国が困難になったこともあって、引退後も日本で生活を続け、日本語(関西弁)もマスターした。本人によれば、結局1955年の来日後キューバには1回しか帰っていないという〔2010年2月に『プロ野球ここだけの話』(フジテレビワンツーネクスト)第6回に出演した際には「そりゃ帰りたかったけど、飛行機が飛ばないんじゃどうしようもない」と語っている。〕。この時唯一帰国できたのは1988年に広島東洋カープがキューバ野球を視察する際において監督である山本浩二がバルボンに声をかけ、特別通訳として同行させる計らいによって実現した。ボビー・マルカーノが阪急に入団した、スペイン語通訳の仕事で阪急に復帰。以後も阪急・オリックスを通じて球団職員として勤務。現在はオリックス・バファローズが運営する少年野球教室「オリックス・ベースボール・アカデミー」顧問。2005年にはNPB12球団ジュニアトーナメントにオリックスJr.監督として出場した。野球エージェントとなっているブーマー・ウェルズの通訳なども務めた事がある。アレックス・カブレラのオリックス移籍後のからは、カブレラの通訳兼教育係として元気な姿を見せている。
すでに半世紀以上も日本に在住しており、非常に流暢でギャグも交えた関西弁を喋る(この為「関西人より関西弁に精通している」とまで評された)。通訳をしていた頃、その関西弁と、あまりにアバウトな訳のため、関西人の間では常に笑いの種にされていた愛嬌のある人物でもある。
阪急在籍時代初期、テレビで力道山の試合を見たバルボンは、チームメイトに「こういう素晴らしい試合のことを日本では八百長と言うんだ」と嘘の知識を教えられたが、バルボンは報道陣のいる前で「リキ、八百長」と言った。後日、これを伝え聞いた力道山本人が怒鳴り込んできて、バルボンは謝罪した(事の顛末を聞いた力道山はバルボンと和解)。
同じく阪急在籍時代初期、チームメイトから日本で挨拶する時は「あじゃぱぁ」(当時のタレント・伴淳三郎の流行語)と言うんだと、また嘘の知識を教えられた。「あじゃぱぁ」を様々な場面で披露したバルボンは受けが良く、喜ばれた。真相を知らないバルボンは、「日本にはなんて便利な挨拶があるんだ」と勘違いしていたという。
上記のエピソードは引退後30年以上が経過してから、バルボンのことを特集したテレビ番組で明かされた。なお、この番組内で他の出演者から「悪い先輩もいたもんですねぇ」とのコメントがあり、バルボンは笑ってこれに同意した。
サンテレビボックス席』の第1回放送での解説者であり、また現役中の1964年には渥美清主演の映画『続・拝啓天皇陛下様』に連合軍兵士の役で出演したほか、1967年には東宝映画『クレージーの怪盗ジバコ』にも名つきの役どころで出演し、CMでは1977年にゼネラルのクーラー「ミンミン」であき竹城と共演している。
浜田雅功らが司会を務めるフジテレビ系のスポーツバラエティ番組『ジャンクSPORTS』に出演歴あり。
2009年6月3日には京セラドーム大阪にて『サラリーマンノック』のノッカーに選ばれる。午後11時という遅い時間からの開始にもかかわらず集まった約50人のアツいサラリーマンに対してノックを行った。〔この日行われたセ・パ交流戦のオリックス対中日戦の試合終了時間が22時20分だったため。〕
2012年スターティングメンバー発表ムービーに出演。
今でも時折、京セラドーム大阪のバックネット裏のスタンドで観戦している姿を目にすることができる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロベルト・バルボン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.